|
飯田経夫先生は、私がもっとも尊敬する有識者の一人である。もちろん、考え方や論調が大いに共感できることがその最大の理由だ(当然のことながら、すべて共感しているというわけではないが)。また、「ヒラの人たちの頑張り」に代表される日本社会の良さを信じ、将来を楽観する明るさ(しかも、能天気ではない)も好きである。しかし、必ずしもそれだけというわけではない。 私が飯田先生を立派だと思う理由はおそらく二つある。ひとつは「経済学は『良き社会』とは何かを考える『社会哲学』である」と明言し、経済学のどれほどすばらしい理論であっても、それが『良き社会』を実現するのでなければ「意味がない」と断言するところである。これは言うまでもない当たり前のことなのかも知れないが、人間の幸せを一顧だにせず、「経済成長」や「経済効率」を最大にする政策を主張する「エコノミスト」たちが跋扈する現代において、まことに貴重な良心ではあるまいか。 もうひとつの理由は、論調や視点にぶれやずれがないことである。あえて一言で言えば「現実的な自由主義者」とでもいうことになるのだろうが、その立場が一貫してふらつかない。 こう言うと、飯田先生の論調に親しんでいる人にはいささか疑問の念を持たれるかも知れない。飯田先生というと、「ああ、あのちょっと『ナナメに見る』人ね」という印象を持っている人が多いらしいからだ。「斜に構えた」とか、ひどい時は「ちょっとひねくれた」とか言われることも少なくないらしい。 これはおそらく、飯田先生の論調が、常々「流行の論調」、言い替えれば「時の主流派」に対して批判的なことが多いからだろう。とはいえ、多数派や流行に同調しないから「ひねくれている」ということにはなるまい。むしろ、視点が一定してずれないから、流行の論調とは一致しないのが当然なのではないか。流行というのは往々にして極端に振れるものである。これに対して一定の立場を維持していれば、「日本ダメだ論」が流行るときには、「はたして日本は『そんなにも』ダメだろうか?」という疑問となり、「日本すばらしい論」が流行るときには、「本当に日本は『それほどまでに』すばらしいのだろうか?」という疑問となる。まことに自然ではないか。 それゆえ、古い著作を読み返してみても、古いという感じがない(もちろん、時代背景の違いは感じるが)。むしろ、「この時期にこれだけのことを言っていたのか」と驚かされることが多い。まさに本物の知識人のみが持つ洞察力ではなかろうか。 飯田先生の本はとりたてて人事・労務管理を論じてはいない。ほとんど論じていないと言ってもいいだろう。しかし、人事・労務・労働を考える上で本当に大切な考え方を含んでいる。どの本もおすすめできる本だが、そのエッセンスを手際良く知るためには、「『豊かさ』とは何か」「経済学誕生」の2冊をまずおすすめしたい。 |
| 「資本主義社会で豊かになることの異常さ」や「ヒラの人たちの頑張りと平等社会」など、飯田哲学を代表する多彩な洞察が論じられる。日本経済について、俗説や流行にとらわれない透徹した視線から真摯な考察を試みた本。1980年刊だが、今読んでもまったく古くなく、むしろ今こそ多くの人に読んでもらいたいと思う。読み返すたびに、流行の議論がいかに軽薄で皮相かを再認識させられる、社会や経済を考える時の確かな視座を与えてくれる本である。 |
| 80年代前半の日本は、間違いなく一つの頂点にあった(これを受けて成立したのがプラザ合意である)。日本は世界一、という浮かれた論調の中で、「ゆとり」を求める声の中に、飯田先生は衰退のきざしを見ぬいた。「モノの豊かさ」が十二分に達成された社会における本当の意味での「豊かさ」と「ゆとり」を考えた本。名著「『豊かさ』とは何か」の続編で、あわせて必読の書。 |
|
豊かになった日本社会、経済のサービス化が進む先には何があるのか。情報化は仕事や職場をどう変えるのか。そのとき、人間の幸福を実現するためには何が必要なのか。「紳士のような大衆」という言葉はひとつの解決になるのではないか。 「『豊かさ』とは何か」「『ゆとり』とは何か」と三部作をなす一冊。今読みかえしてもまったく古くない。すべて20年前にはわかっていたのだ。 |
「日本経済はどこへ行くのか−危うい豊かさと繁栄の中で」 |
| バブル前夜の円高不況期の本である。「(マネーゲームや投機の)すべてが悪いとは言わない。(投機が)資源配分好ましい…ケースが多々あることは、教科書に書いてあるとおりである。…ただ、問題はバランスである。そういう要素が過度のウェートを占めるようになるのは、やはり好ましいことではない。率直にいって、近年における銀行の急速な変貌に、私はそのにおいを感じる」「マネーゲームとは、いわばカネがひとり歩きして、金融資産の価値を、実体の何倍にもふくらませることにほかならない。それは泡(バブル)のようなものだから、ちょっとした刺激によってたちまち破れ、縮んでしまうだろう」など、バブル経済への警鐘があちこちに見られる。さらに、「(日本企業が)真に多国籍企業の名にふさわしい企業(となる)…ためには、…第一は、…外国人のなかでももっとも優秀な人材を、引きつけるだけの魅力をもたなければ ならない。…第二の条件として、…外国人たとえばアメリカ人が、その株式に喜んで投資したくなるような企業でなければならない」とも言っている。盛田昭夫氏の「日本的経営が危ない」に先立つこと5年である。 |
| バブル絶頂期の本であり、「日本経済ここに極まれり」というタイトルも、その現状を無批判に受け入れているかのように見えるかも知れない。しかし、この本は決してそういう本ではない。むしろ、当時の日本の好況を「信じられない、驚くべきこと」ととらえ、それは決して安定的な実力ではなく、「勃興期」にある国の「勢い」の強さである、と解釈してみせる。そして、そこから「いかに衰退すべきか」というソフトランディングのシナリオを描いているのである。残念なことに、現状がバブルであるという認識は示されず、また、「ハイテク・情報化を通じた新しいライフスタイルの構築」は日本ではなく米国が先行してしまったように、いささか能天気な部分もあるが、時代背景を考えれば驚くほど冷静な本と言ってよいのではないだろうか。 |
| 「日本経済ここに極まれり」の2ヶ月後に出た本であり、基本的な論調は同じである。しかし内容的にはかなり異なる。ここでは、これだけの豊かさを実現しながら、なお「豊かさの実感がない」と訴える人々に対して、「足るを知る」ことの叡智が説かれる(これはこれ以降、飯田先生の著述の中心的テーマのひとつとなる)。そして、「『不平不満を並べ立てたが、思えばあの頃がピークで、いちばんよかった』ということに、なりはしないか」と言う。まことに今から思えば、という感がある。 |
| 「およそ人間は、命令では動かない」ではどうするか。これが飯田先生の与えた「経済学をひとことで言えば」という質問への回答である。これは要するに市場原理の「見えざる手」のことを指しているのだが、経営学にも通じるものがある含蓄ある言葉である。この本は経済学の入門書であり、通読すればたしかに経済学の大枠とモノの考え方が一通りわかるように書かれている。そして、その中に、飯田先生の思想や哲学が縦横にちりばめられている。すべての経済学を学ぶ人、経済に関わる人に読んで欲しい本である。 |
|
92年、貿易摩擦を背景に、経団連は「共生」というコンセプトを打ち出した。これを背景に、当時ソニー会長だった盛田昭夫氏が「文芸春秋」92年2月号に「日本的経営が危ない」という論文を発表し、事実上の経団連会長立候補宣言といわれた。「共生」の名のもとに、株主や労働者への配分増を打ち出し、「行き過ぎた価格競争や市場シェア重視の見直し」をうたったこの論文、当時は盛田氏に反対することはとてもできないような社会の雰囲気だったが、飯田先生は強烈にこれに反論し、一大論争をまきおこした。それが「voice」92年5月号に掲載された論文「競争の手をゆるめるな」である。この本の第十章「何のための競争か」はこの論文によっている。 この本全体としては、基本的にはバブル経済に対する反省が基調である。バブル経済を概括したうえで、日本経済の持つ強さ、すなわちモノづくりにおける優位性と「ヒラの人たち」の頑張りが依然として確保されていることをふまえて、「日本型資本主義は悪くない。バブル崩壊からの回復にはかなりの長期を要するだろうが、回復すればふたたび日本経済はかつての力強さを取り戻す」との結論を示している。今もなお、かろうじてこの強さは維持されているが、はたしてこの予言が実現するのはいつだろうか。 |
| バブル崩壊後の経済低迷と社会の閉塞感がいよいよ深刻になってきた時期の本である。たしかにこの時期、世に「泣きごと」は多かった。この本は短いエッセイを集めた体裁のものだが、ここで送られるメッセージは「自信を持て」である。銀行や一部のエコノミストを除けば、日本は実は悪くない。だから「泣きごと言うな、政府を頼るな、自信を持って資本主義経済を生きよ」というのである。「自由市場の秩序を守るための規制は必要」ということは、書いてこそないものの、まさに「単なる保護政策のための規制は不要」ということだろう。そういう意味でもまさに「泣きごと言うな」なのだ。 |
| 金儲けという熾烈な競争、成長と繁栄の末に、バブルに狂い、規律とモラルを喪失した日本社会。その中で、さらに規律を排除しようという「行き過ぎた規制緩和論」。「先進国病」「飽食」というとてつもなく高いハードルをいかに越え、そこにどんな「豊かさ」を見つければよいのだろうか。「反省」癖を改めよ、簡素な生活に精神的な豊かさを求めよ、と飯田先生は言う。それは難しいことではなく、「まじめに」「額に汗してモノづくりに励み」「規律を再建する」ところから見えてくるのだ、という。それで十分に豊かではないかと。 |
「経済学の終わり−『豊かさ』のあとに来るもの」 |
| この本では、バブルの発生と崩壊について「経済学者・エコノミストたちも、それに対して警告を発することなく、むしろそれを煽りさえした点で、罪はまことに重い。私自身も」と、深い反省が述べられる。そして、資本主義社会で「豊かさ」を達成するとは、たいへんな「無理」を重ねることであり、すでにその限界が見えてきていること、そして、 それを克服しようという経済学の努力が奏効していないことが、アダム・スミス、マルクス、ケインズの考え方が現代にどのように実現したかを通じて語られる。そして、当時全盛で、今も強い勢力を持つ市場原理主義が「経済学」であるなら、「『よき社会』とはどういう社会かを考える『社会哲学』」としての「経済学の終わり」だという。自身筋金入りの自由主義者であり、経済学研究に生涯を捧げて功成り名遂げたこの老大家に、ここまで言わせるわが国経済学の現状をどう考えたら良いのだろう。 |
|
この本はたいへん面白い構成になっていて、第一部は70年代から81年までに、第二部は96年・97年に書かれたものが集められている(第一部には、第1回の石橋湛山賞を受賞した「高い自己調整力もつ日本経済」が
所収されている)。 第一部を読むと、飯田先生の基本的な考え方、視点の位置がわかる。そして、第二部は、現在(というか、96〜97年当時)の世間の論調を、飯田先生の基本的な考え方、視点から批判するとどうなるのか、ということがわかるようになっている。おそらくその結論は、「『日本的』な諸慣行とは、資本主義の『狂気』を飼いならすために行われた…日本人なりの努力」であり、「悪いところもいろいろある。しかし、そのすべてが悪いわけではない」という序文の一節に集約されているのだろう。 |