■2003/01/09 (木) 数億円の研修で不正がなくなるわけがない

 今回の「日本病を断つ」は企業不祥事と危機管理の特集だった。「正直企業は危機を逃れる」ということで、不祥事を隠蔽しないことが重要だと説く。もちろん正論だし、同感だが、隠蔽に対するマスコミの追及の過酷さはいかがなものかと思うこともある(このあたりは情報を流してもらわないと仕事にならないマスコミのせつなさを感じさせる)。
 とはいえ、「社員三万人の大企業グループで研修・監査などの不正予防コストは年間数億円」で、「ほぼ同規模の日本ハムが今季の予想最終損益を二百億円下方修正したことを考えれば高くない」というのはいかがなものか。
 そもそも、研修・監査をやれば不正がなくなる、という発想が現実的でない。数億円をめいっぱい高く見積もって9億円としても、従業員3万人ならひとりあたり年間3万円だ。不正をするときは当然みつからないようにやるわけであり、年間ひとりあたり3万円のコストで不正をすべて摘発できる監査が可能なわけがない。
 また、日本ハムの業績との比較というのもミスリーディングだ。日本ハム(や雪印乳業)のケースはいわば最悪のケースであり、いかに不正があったにしてもあそこまでにいたるケースは多くないだろう(しかも、あそこまでに事態を悪くしたのは研修や監査の問題によるものではない)。さらに、研修や監査をやらない企業のすべてで日本ハムのような不正が働かれているわけではないだろう。こんどは数億円をいちばん安く見積もって2億円としても、200億円の1%にのぼる。保険料としても高すぎないだろうか。
 要するに、研修や監査の効果などしれたものなのだ。不祥事をなくしたり、不正が早期に発見できる企業にするためには、企業と従業員の信頼関係を高め、従業員が企業とともに長期にわたって繁栄しようという気持ちを強く持つことで、不正をおこさない・許さない風土をつくることが最重要なのであり、それは日本ハムの不祥事が発覚したきっかけが「これ以上隠したら、ばれたときに会社がつぶれる」という従業員の危機感であったことからも感じ取れる。これが日経の短期利益重視の首切り・賃下げ路線と相容れないことはまちがいないが、だからといって事実をごまかしていいというものではないはずだ。

■2003/01/07 (火) 何をいいたいのか?

 5日(日)の「日本病を断つ」は、要するに治安の悪化は仕方がないこととして受け入れるべきで、国民が自らカネをかけて安全を守るべきだということを云いたいのだろうか。
 しかし、わが国の治安のよさは、わが国が貧困をほぼ撲滅した成果であり、他国が範としているもののはずだ。それが「日本病」で「病気」というのはどういうセンスなのだろうか。たしかに、日経の主張する路線を歩めば貧困層が増大し、治安の悪化は避けられない。だからといって、治安の悪化を善だと主張するのは無理であり、「日経病」である。堂々と、治安は悪化するが、その他の点でそれ以上にメリットがあると云えばいいのにそれができないのは、日経も内心では自ら筋が違うと思っているのだろう。
 きのうの「日本病を断つ」もなにを言いたいか今ひとつわからない。たしかに原発の事故や不祥事は大問題だ。しかし、それがなぜ「危機の教訓を忘れ、難題を先送りする『日本病』」になるのかはまったくわからない。問題は、事故を隠さざるを得なくなるような規則であり、技術者に対する信頼の失墜であり、コストを水ぶくれさせる地元の地域エゴであるはずなのに、すべて国家行政の不手際だといわんばかりの書き方だ。
 そしてきょうの「日本病を断つ」だが、公共事業の見積りの甘さはたしかに大問題である。しかし、民間企業まで同じようなことが行なわれているといわんばかりの書きぶりは事実をゆがめている。しかも、そこから包括利益の話に持ち込んで、日本企業のいわゆる「含み益経営」が公共事業の水増し予測と同様の悪であるという展開になっている。ミスリードもはなはだしい。
 現実には、包括利益より純利益の方が企業や事業の収益力がわかりやすいという意見が有力であり、なんときょうの「日本病私の処方せん」でも、企業の実務家が「純利益のほうが優れている」と述べているくらいなのだ。
 この3回はいずれも、実はなにをいいたいのかがいまひとつわからない。単に悪い悪いと言い募っているだけのようにも思える。

■2003/01/06 (月) 中高年へのしわ寄せでは若年の夢は生まれない

 週末の「日本病を断つ」も日経病の病膏肓だった。
 4日(土)は「企業に問う 職の夢どこに」だが、たしかに若年雇用が大問題であることは事実だ。これに対して、日経は中高年を首切りすれば若年を雇用できると主張する。
 しかし、ただ若年を雇用すればそれで済むというものではない。その後、それなりの時間をかけて技術や技能を磨いていくことが大切なのだ。そのうちには若者も中高年になる。中高年は若者の将来像なのであり、それがバンバン首切りされ、技能形成が寸断される社会に「職の夢がある」とはおよそ思えない。
 そもそも、日経は「住宅ローンや教育費が重く再就職もままならない中高年層への温情」があるというが、これがとんでもない見当ちがいだ。長期雇用の中高年の多くは、事実上定年までの雇用を約束される見返りとして、企業の事情にきわめて柔軟に対応してきた。これは温情などではなく、事実上はドライな契約の側面が強いのだ。約束どおり企業の事情に従って働いてきた中高年を、何ら非がないにもかかわらず企業の一方的な都合で解雇することが許されないのは当然である。これからどうすべきか、という問題ではない。すでにある契約は簡単には反故にはできないのだ。
 こう考えると、多額の割増退職金を積んでの希望退職や、再就職支援を充実させた転進支援制度など、企業はよくやっているといえるのではないか。
 さらにおかしいのは後半部分だ。起業した学生や若者を礼賛するのはまあいいだろう。その芽が小さいといって嘆くのはいい。文部科学省が起業・投資に関する教育に消極的なのに不満を述べるのもよしとしよう。しかし、その結論が「若者の職への夢をよみがえらせるのは、企業の責務だ」というのはどういうことなのだろうか。若者に対する起業教育、投資教育を企業がやれということなのだろうか。だとしたら支離滅裂である。
 若年雇用問題はたしかに重要だが、賃金の高い中高年を一人切れば若者が2人雇用できる、という短絡では解決にはならない。ワークシェアリングの具体化を真剣に研究すべきだろう。

■2003/01/03 (金) キーワードは「シバキ系」

 「日本病を断つ」の特集は、1面に記事があり、3面以降に「私の処方せん」として識者の談話記事が掲載されている。これは私の勝手な想像だが、日経の談話記事は多分に日経に都合のいいところが強調され、本人の意図が正しく伝わらないことが多いのではないか。だとしたら気の毒な話だ。
 さて、「私の処方せん」のトップバッターは、経済同友会副代表幹事の福井俊彦氏である。
 さて福井氏は「日本経済の停滞の原因は銀行の不良債権」と、まずは日銀の意向を代弁する(氏が日銀OBであり、次期総裁の有力候補であることは周知)。そのうえで、間接金融への偏重をただすべきという。それはそれで有力な意見だろう。
 さらに福井氏は、「日本は『安全な資本主義』に慣れすぎた」「資本主義は他人を頼るシステムではない」「安全ネットは地面近くの低いところ」などと述べ、最後に「苦痛を経験せずに楽園へは行けない」と断定している。実は何を言っているのかよくわからないのだが、要するに日経が福井氏の口を借りていいたいことは「危険を冒せ」ということらしい。
 しかし、ただ「危険を冒せ」といわれて「はいそうですか」という人はなかなかいないだろう。危険を冒すにはそれだけの見返りが期待できなければなるまい。しかし、このご時世、見返りの期待値はかなり低い。
 また、同じことでも人によって危険だったりそうでなかったりする。同じことでも人によって感じる苦痛の度合いも違ってくる。結局は、今も昔も個人が自分のリスク負担力を考慮して合理的に行動しているということだろう。
 もちろん、危険を冒す人がより利益を得るようにルールを変えることはできる。しかし、それが本当にいいのかどうかは簡単にはわからない。少なくともいえることは、福井氏のようなリスク負担力が大きい少数の人や、他人にリスクをとらせて手数料の上前をはねる「市場関係者」などにとって得であることは事実だろうが。「苦痛を経験せずに楽園に行けない」は、正確にいえば、「おまえたちが苦痛を経験しないから、私たちは楽園に行けない」ということではないのか。
 このような、リスク負担力の比較的小さな多数の人に苦痛を押し付ける考え方を「シバキ系」という人がいる。そういえば、徹底的に悲観的な「日本ダメだ論」も自虐的で、やはり「シバキ系」だ。日経病のキーワードは「シバキ系」らしい。

■2003/01/02 (木) ニッポネンシス?

 今日は休刊日なのできのう(1日付)の紙面から。
 特集のロゴには、「日本病」のところに「ニッポネンシス」というふりがながふってある。これはラテン語で、日本原産の動植物の学名にはひんぱんに登場する。で、日経によると、「学名らしい響きがあるので、欧米の一部識者が『日本病』を示す言葉として使い始めた」のだそうな。
 そこで、誰が使っているのだろうかと思ってGoogleで検索してみたのだが・・・ヒットしない。もちろん、動植物の学名としては多数ヒットするのだが、政治、経済の用語としては全然ヒットしないのだ。
 そもそも、日経のいわゆる「ニッポネンシス」とはなにかというと、先送り中毒、前例依存、危機意識欠乏、リスク過敏の4つなのだそうだ。だいたい、これが「日本固有」なのか。日経の記事にはドイツ人が「わが国は第二の日本ではない」と語った、と、何の根拠もなく、また前後の脈絡もなく書かれている。しかし、ドイツ人にこの4つを見せれば、おそらくはドイツの話だと思う人が多いはずだ。だからこそ、日経はわざとらしくこのドイツ人のことばを入れざるを得なかったのだろう。そもそも、こうした傾向はどんな国にも多かれ少なかれ見られることではないだろうか。そして、景気が悪いときにはそれは目立つにちがいない。
 たしかに、一部日経のいうとおり、デフレ傾向は一部先進各国にみられ、日本の事例がその前例として参考とされているのは事実だ。それを指してニッポネンシスといわれているというならまだしも理解できる。しかし、先送りや前例依存が「日本固有」といわれるというのは考えがたい。
 ことによると、日経はこうやって「ニッポネンシス」を今から流行させようとしているのではないのか、とまで思えてしまう。そもそも、「一部の識者」というのがいかにもうさんくさい。多少名の通った人物が言っているのであれば、日経は大喜びでその人の発言を引用するはずだからだ。
 ところで、その伝でいくとこのコーナーの「日経病」というのも、必ずしも日経特有ではないかもしれないので不適切かもしれないがご勘弁願いたい(笑)。「朝日病」というのもありそうだな。まあ、せっかくなので(なにが)、ニッポネンシスもパクらせてもらって「ニッケイェンシス」としよう(笑)。

■2003/01/01 (水) 病膏肓の「日経病」

 日経新聞の元日号は、毎年一面トップにその一年をつらぬく編集テーマによる特集を掲載しているが、今年はなんと「日本病を断つ」と称して、自虐的きわまりない「日本ダメだ論」を展開しようとしているようだ。いわく、「世界が学ぶ反面教師」「根深い病根活力そぐ」などと、いかに日本がひどい国であるかを主張する言葉がならべられており、読んでいて新年早々気分が悪くなってしまった。
 しかし、ちょっと読み進むと、例によって日経お得意の独善と偏向が見えてくる。日経はなにごとも「構造問題」であり「構造改革」が必要であるという。今日の大見出しは「改革 論より実行」ときたものだ。日経は自らの所論が正しいと主張し、それを実行せよと訴える。ところが、実際には日経んの所論はおよそ正しいとも思われず、世論の支持を集めているともいえない。そこで、なにがなんでも自説を貫くべく、よりセンセーショナルな「日本ダメだ論」に打って出たのだろう。
 とはいえ、単純に考えて、今の日本の実態が、それほどひどい国のものだろうか。日経新聞が自ら書いているように、バブル期にくらべて土地の時価総額は800億円近く減って3分の2以下になり、東証1部は350億円以上減って半分以下になっている。これだけの異常なダメージを受けたあとには、どうしても思うようにならないことが多くなる。要するに、景気が悪いから、という問題も多いのであって、すべてが構造問題ではなかろう。むしろ、わが国が依然として大きな社会的混乱を招いていないことは、日本経済・社会の構造の持つ強さを示していると考えるべきではないか。
 たしかに、日本にもさまざまな構造的な問題点はある。それに対する対策がとられない現実も多々見られるに違いない。とはいえ、日本の悪いところや失敗事例ばかりを並べ立てて、「日本ダメだ論」を展開することは、少なくともナンセンスだろうし、すべて構造問題だと主張することはミスリーディングでもある。
 独善と偏向も、ここまでくれば病気である。「日本病」ならぬ「日経病」だ。なにしろ年間の編集テーマがこれなのだ。今年は例年以上に日経ネタが多い一年になるだろう。
 というわけで、今年は「今日の日経掲示板」を日記形式で復活させることにしよう。どんなネタが飛び出すか楽しみだ。


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