■2003/11/07 (金) 論調が変わった

 それにしても、このところ日経の論調は明らかに変わっているように感じる。たとえば、今週月曜日(3日)朝刊のコラム「核心」では、あれほどまでに米国流のリストラ一辺倒、米国式企業統治礼賛を繰り返していた日経が、日独仏の経営スタイルを積極的に評価している。まあ、記事にもあるように、日経肝煎りの「世界経営者会議」でも「企業は株主にリターンで報いるだけでなく、社会的な責任を果たさなければならない」という説が優勢だったようなので、その流れに乗っているだけなのかもしれないが、それにしても大きな方針転換だと思う。もちろん、たいへん結構なことだ。
 今日の社説は日立の賃金制度改定を取り上げているが、これをみても、いささか賃金ダウンや降格が強調されすぎているきらいはあるものの、これは日立としてもある程度意図しているところだろうし、従来ならもっとヒステリックに書いていただろう。もちろん、日立ほどのしっかりした労務管理を行っている企業であれば、現実には、賃金ダウンや降格は制度的にはありうることとなってはいても、実際に起こることはごくまれな例外に限られるわけだが、6日付日経産業新聞の記事はそこまでフォローしている(この記事はなかなか充実していると思う)。「定昇」という用語をめぐる混乱は相変わらず見られる(労組のコメントどおりなら右肩上がりの賃金プロファイルは残るので、結果としての統計的な「定昇」はなくならないはず)が、おそらくは日立サイドの資料の標記を踏襲しているのだろう。用語の定義は個別労使によって異なるので注意すべきではあるのだが、定義を推測しながら読めば理屈は通じるので、仕方のない範囲だと思う。今年の春闘の当時に較べれば格段に改善しているのではなかろうか。
 取材強化や賃金制度への理解が進むことで内容が改善しているのは結構なことだが、論調がここまで変わったのはどういう背景があるのか気になるところだ。まあ、景気が上向き加減になってきたので、あまりに自虐的・悲観的な論調はなじまないという判断が働いたのだろうか。あるいは、株価が上がってきたことで、あまりヒステリックに「首切りして利益を出せ、株価を上げよ」と言い募る必要もなくなったということなのか?まさか、鶴田某が辞任したから、ということは・・・ないでしょうね。
 いずれにしても、「日経病」が快方に向かう方向ならばご同慶です。

■2003/11/07 (金) 今週の「働くということ」

 一ヶ月以上開いてしまいました。
 今週から「働くということ」の「世代の壁」というシリーズがスタートしている。各「世代」をステロタイプに扱い過ぎるのはどうかと思うし、そもそも「世代の壁」はいつの時代にもあったのではないかとも思うが、内容はこれまでの日経を思えばかなりマトモである。喜ばしいことだ。
 とはいえ、相変わらずオソマツな点もある。たとえば第2回(4日)の若年雇用問題の論調が、最近では表立っては言われなくなりつつある若年シバキ系の俗論中心の展開となっているのはいかがなものか。
 また、第4回(6日)では、香港在勤の女性・年下・外国人上司の指示にしたがって採用業務を行ったところ、劇的にコストが減ったという事例が出てくる。まあ、国籍や性別・年齢にこだわらない処遇、という趣旨はいいのだが、事例として採用業務を持ち出すのはあまりうまくないのではないか。採用に関してはいくらコストが下がっても優れた人材が採れなければ意味がないわけだし、いまは黙っていても優秀な人が飛び込んでくるような環境だからいいとしても、コストが減ったと喜んでいたらノウハウも失ってしまい、世間が人手不足になったら全然採れなくなってしまいました、というのでは困るのだ。ほかにもっといい事例があるだろうに、ついでに日本企業の採用業務を批判してやろうという欲を出すからおかしなことになるのではないか。
 今日の第5回は、団塊世代の存在による人口構成のゆがみが労務構成のゆがみとなり、その弊害が出ているという話で、それはそのとおりだが、前半のほぼ半分を占めて語られる多摩ニュータウン衰退のエピソードは、実は後半の内容とは「段階関連である」ということ以外にはなんの関係もない。しかも、結論で「世代の隔壁をはずし、社会全体が痛みを分かち合う時が来ている。」というのだが、文中には「団塊世代が賃金を半減された」という「痛み」の事例が出てくるだけで、「世代の隔壁をはずし、社会全体が」分かち合う「痛み」というのがなんのことなのかが全然わからない。
 このシリーズの意図はここまででは今ひとつピンとこないのだが、これはまだ完結していないからかもしれない。今回は比較的マシなだけに、最後に滅茶苦茶にならなければよいのだが。

■2003/09/26 (金) 外国人労働者問題は重要なだけに

 書こう書こうと思ってとうとう金曜日になってしまいましたが(笑)、週末の日経から、21日(日)朝刊5頁の「けいざい解読(読解?)」を。
 この記事は外国人労働者問題を解説している。少子化が進むなかで外国人労働者の受け入れはたしかに大きなテーマだろう。記事は「計画的な受け入れへ今から準備を進める必要がある。」と結んでおり、前向きな姿勢を示している。
 問題は、そこであげられている事例だ。岐阜県の縫製業者の共同組織『日中ファッション研究協同組合』では、「素早い縫製を求める注文は多いので仕事の心配はないが、問題は人手確保」であり、外国人研修・技能実習制度を利用して中国人実習生を労働力として活用しているのだという。「高失業下でも人手不足という現実を直視し、日本人のなり手がない分野を中心に外国人受け入れを真剣に考える時期に来ている。」と主張している。
 しかし、日本人のなり手がないのは、きつい、あるいはきたない仕事なのに賃金が安いからだろう。日本人が雇える賃金では採算が取れないとしたら、その仕事は海外に流出せざるを得ない。もちろん、それがいいかどうかは議論があるだろうが、少なくとも日経はそういう仕事は海外に流出すべきとの姿勢をとってきたはずで、ここだけ例外にするのはおかしい。「素早い縫製」が必要で海外に出られないというなら、日本人をしかるべき高い賃金で雇い、それに見合った価格で売るのが正論だろう。外国人研修・技能実習制度の本来の趣旨を逸脱して、実習生を廉価な労働力として利用するのがフェアな競争といえるかどうかは疑問で、たとえば連合などなら不当廉売と見るのではないか。
 また、「台湾は二国間協定で外国人労働者受け入れを進めているが、外国人を雇った企業は供託金を銀行に供出、失そう者が出ると没収する仕組みを取ることで不法滞在を防止している。」と書いているが、現実には台湾では供託金制度を廃止している。台湾も景気が悪化して、外国人が台湾人の職を奪う実態が出てきたために、供託金に代わって、外国人を雇用する企業は『就業安定基金』への資金拠出が求められることになっているようだ(これは台湾人の再就職支援のための『職業訓練チケット』の財源となるという)。
 いずれにしても一筋縄ではいかない問題だけに、もうすこしきちんと理屈をたてて、ていねいに取材して書いてほしいものだ。

■2003/09/11 (木) 現場を知らない記者 その2

 下からの続きです。
 現場には、安全面をすこし犠牲にしてもコストダウンをはかりたい、という誘因はあるだろうし、もっといえば、面倒だから安全確保のための作業を省略する、といった誘惑も常にある。それを「微妙な意識のずれ」と表現することもできるかもしれない。しかし、それがあるからこそ、本社も現場もつねに「マニュアル順守」を連呼しなければならないのだ。もちろん、本社が現場のことを知らないがゆえに、現場に強くコストダウンを求めすぎ、結果として現場が安全を犠牲にせざるを得なくなったいるにもかかわらず、本社はコストダウンの結果だけを見て喜々としている、といったようなケースは、これは随所で起きているのかもしれないし、それを問題視するならわかる。しかし、それは「マニュアル順守」とは別の話だろう。
 また、畑村氏のコメントはそれ自体はもっともな指摘だが、使い方がおかしい。事故原因がマニュアルの想定を超えているからといって、マニュアルを守らなくてもいいということにはならないのは当たり前だ。
 また、マニュアルを守れない人が、マニュアルの想定を超えた事態が発生したときにうまく対処できるわけがないというのも常識だろう。安全に限らず、マニュアルの想定を超えた不確実性に対処するノウハウは、小池和男氏によって「知的熟練」として概念化されており、つとに有名であるが、それを形成するには、長期にわたって現場の仕事を継続し、変化への対応の経験を積み上げることが必要であるとされる。これまた、マニュアルを順守し続け、その改訂を重ねることで、マニュアルの奥にある本質をとらえ、マニュアル外の変化に対応する感性が磨かれるというのだ。したがって、マニュアルどおりの対応だけでは事故はなくせないという畑村氏のコメントは正しいが、必要なのは長期勤続の中でマニュアルの順守・改訂を重ねていくことなのだ。
 事故をなくすために、現場主義の徹底はきわめて重要だ。それを書くのであれば、記者もきちんと現場主義で、現場について勉強して書いてほしい。

■2003/09/11 (木) 現場を知らない記者 その1

 内容的にはきのうの続きという感じになるが、今朝の日経の13面に、「製造業問われるリスク管理」という特集記事があり、最近の事故多発の原因を論じている。「世代間の壁」と「本社と現場の認識の差」が問題だという。
 世代間の壁ということで、「鉄鋼各社の事故多発の背景には、高度成長期に大量採用した社員が近年、定年退職していることがあるとの見方がある」という。「事故リスクを見つける目を持った人が少なくなっている」ということで、鉄鋼に限らずどのメーカーも「不具合の兆候を知るノウハウを伝承できずにいる」という。
 まことにそのとおりだが、その原因として定年退職をことさらに悪者にしているのはおかしい。たしかに鉄鋼では定年退職が多いという問題があるが、製造業全体としてみればやはりリストラ、あるいは長期雇用の縮小のほうが大きな要因だろう。
 本社と工場の認識の差、というのは、要するに「マニュアル順守を連呼する本社と、日々のコスト削減に追われる工場との間には微妙な意識のずれがある」ということのようで、「失敗学」で有名になった畑村洋太郎・工学院大学教授の「事故原因はマニュアルの想定を超えたところにある。精ちなマニュアルさえ作ればいいという考え方から抜け出さないと事故は防げない」というコメントを引っ張り出して、各社の対応を批判している。残念ながら、企業の現実を知らない記事と言わざるを得ない。
 どうやらこの記者は、本社がマニュアルを作って、現場にそれを順守させようとしていると思っているらしい。しかし、多くの製造業では、マニュアルをつくるのは現場である。そして、コスト削減のために作業方法を変更したら、それにあわせて日々マニュアルを改訂する。その過程で、新しいマニュアルには安全上の問題点がないか、ということもチェックされる。「本社」としては、そうやって作られたマニュアルが守られていなかったり、あるいはこうしたマニュアル作りのしくみが形骸化しているとしたら、それはやはり問題視するのが当然だろう。
 長くなるので上に続きます。

■2003/09/10 (水) 日経病の典型

 今日の日経朝刊は、社説で新日鉄とブリヂストンの事故を取り上げ、「製造業は基本に戻り安全対策の確立を」と訴えている。
 これらの事故に対して「単なる現場の不注意以上の構造的問題があるとみた方がよさそうだ」として、具体的には「コスト削減による生産現場の空洞化」たとえば「表面的な人数は十分でもベテラン社員をリストラし、経験の薄い若手ばかりになればやはり不安がある」とか、「賃金、雇用制度の変化でこれまで安全操業を裏で支えていた現場の規律が弱まっている」とか、あるいは「設備の老朽化」などをあげている。
 いずれも、日経がこれまで主張してきた賃下げ・首切り路線や、株主至上主義の行き着いた結果だが、「自分たちはそこまでやれといったつもりはない」ということらしい。しかし、新日鉄もブリヂストンも代表的なリストラ銘柄であり、そのリストラを日経も賞賛していたはずだ。まことに見苦しい醜態で、これで他人の規律やモラルを平然と論じるのだからチャンチャラおかしい。まさに病気=日経病だ。
 とりわけひどいのは、この期に及んでまだ「会社への帰属意識に代わる新たな現場のモラル維持の手法を日本企業は早く確立する必要がある」などと言っていることだ。日経はこのところ「会社への帰属意識」を徹底的に否定する論調なので、いまさら「現場のモラル維持のために会社への帰属意識を高める必要がある」などとは書けないのだろうが、しかし、それ以外にどんな手法があるというのか。具体案を示せないにもかかわらず、安易に「会社への帰属意識に代わる」新たな手法を求めるというのは無責任きわまりない。なお、言うまでもないが、厳罰主義は解決にならないだろう。最大の厳罰は解雇だろうが、解雇が厳罰になるのは長期雇用が確立しているからなのだ。
 社説は「日本の製造業は安全性、供給安定性第一の基本に返って、生産現場の再生を急ぐべきだ。」と結んでいるが、どうして、雇用や労働条件の安全と安定なくして、作業や品質や供給の安全、安定はありえないということは、製造業の現場をあずかる経営者なら誰でも知っている。
 この社説を読むと、日経がこれまで賃下げ・首切り路線を感情的に言い募ってきたせいで、まともな論評ができなくなってしまっていることがわかる。まさに自縄自縛であり、日経病の病膏肓だ。いいかげん、自己批判して方針転換をはかるべきだろう。

■2003/09/04 (木) 休憩

 今日の「吐息の日々」で、毎日新聞のトンデモ記事を取り上げています。ここでは日経の「働くということ」を叩いていますが、公平のために申し上げておきますと、毎日や朝日に較べれば日経はハルカにマシといえましょう。それだけに、おかしなことを云われると困るわけですが。
 毎日や朝日なら、読むほうもそう思って読んでいますから罪も軽くなるわけですが、日経はビジネスマンの信頼も高く、影響力も大きいので、それにふさわしいバランスのとれた報道をお願いしたいものです。

■2003/09/02 (火) 「中流幻想」という日経病 その2

 下からの続きです。
 次の事例は、たぶん「1円起業」の取材を流用したのだろう。「成功を夢見る二人の大学生がいる。」「最初のネット通販はすぐに頓挫。太陽電池に使うシリコン廃材の輸入では大企業に相手にされなかった。」なんか、大企業を悪者にしようという意図が透けてみえていじましいね。で、「そんな失敗続きの二人を市場調査会社の会長が「一緒にやろう」と誘ってくれた。今でも『無給。土日はアルバイトで運転資金を稼ぐ』日々。将来は不透明でも『人が喜び自分も成長する働き方を探したい』。」
 こういう生き方も自由だし、ある意味立派でもあると思う。しかし、平日は無給で、土日のアルバイトも運転資金に消えるのでは、生活費はいったいどうなっているのだろう。
 まったくの推測だが、常識的に考えて可能性が高いのは、またしても嫌な言い方をすれば「親にパラサイトしている」ということだろう。もちろんそれも自由だし、なんら非難されるものではない。むしろ、そういう生き方も選択できるということが、私たちの先輩が達成した「豊かさ」なのだと思う(そういう意味では、りそな銀行にしても「30年尽くした結果がこれか」とはいっても、倒産して根こそぎパァになるよりはよほどマシなはずで、こうした処理ができることも日本の「豊かさ」なのだと思う)。しかし、そうした「豊かさ」が、まじめにコツコツと仕事に励み、それなりの働きがいを大切にしてきた「中流」大衆の働きの成果であることを忘れてはなるまい。
 もちろん、転職、起業、独立、派遣、どれも立派な働き方、生き方になりうる。こうした選択肢が増えることはすばらしいことだと思う。しかし、長期雇用の正社員も、やはり立派な選択肢の一つであり、十分に働きがいを持って働くこともできるはずだ。
 日経は、転職や起業についてはほぼ成功例ばかりを取り上げて礼賛し、長期雇用の正社員については例外的な失敗例を持ち出して非難している。事例なので、なんとなく説得力はあるが、しかし理屈はまったく合っていない。「中流幻想」という言葉も、目はひくが意味不明なキャッチフレーズを無理やり使っているだけで、「日本病」と同種の日経病の病膏肓だ。いつまでこんなことを続けるつもりかわからないが、後からみて恥ずかしいのは日経自身だ。

■2003/09/02 (火) 「中流幻想」という日経病 その1

 きのうでようやく、「働くということ」第4部が終わった。結論は、「中流意識に根差した安穏とした組織や常識を幻想と疑い、決然とリスクに挑む。日本人が働きがいを取り戻すカギは目の前にある。」ということなのだそうだ。
 今回は最初にりそな銀行の事例が出てくる。しかも「常務執行役で大手町営業部長」だ。都銀の役員がこれまで「中流」だっただろうか。「実質国有化で世間の批判を浴び、退職金は返上。『30年尽くした結果がこれか』との思いがよぎる。」というが、それでもまあ、トータルでみれば、並の「中流」の勤続30年よりはかなりましだったに違いない。
 次の事例もなかなかのものだ。「『中流』の生活に決別し、やりがいを求める試み」らしいのだが、「収入は前の会社の三分の一。都内の高級マンションも引き払い、通勤はタクシーから自転車に――。村田英隆(34)はそんな今の暮らしが気に入っている。」「東大を出て旧東京銀行(現東京三菱銀行)に入行。プロジェクトファイナンスの腕を買われて米大手投資銀行に引き抜かれ、企業の合併・買収(M&A)を手がけた。」おいおい、東大卒で、30代前半で高級マンション住まい、タクシー通勤かね。ずいぶんな「中流」もあったものだ。「『お客のためよりも、自分の懐に手数料がいくら入るか』とそろばんをはじく毎日。」は、さぞかし「安穏とした組織や常識」だったのだろうね。
 その次も似たようなもので、「65年、『鉄は国家なり』を信じて八幡製鉄(現新日本製鉄)に入社。…50歳で新日鉄と関係が深い中山製鋼所の取締役に同期トップで就任。専用車、秘書付き個室……。だが『働く喜び』は乏しかった。」新日鉄の同期トップが「中流」とはね。
 で、「六年前に退任、大学教授らと還元溶融技術研究所(高知県北川村)を立ち上げ」て成功したのだという。そして、いわく「リスクを負わないことが最大のリスク」。嫌なことを言うようだが、65年入社で新日鉄のトップを走った人なら、何をやっても成功する確率は高いだろう。成功した人はなにを言ってもいいと思うが、普通の人に向かってこういう人が「リスクを負わないことが最大のリスク」とうそぶくのはいかがなものか。まあ、記者に誘導されて言っただけのことかもしれないが。
 今日もまた、上に続きます。

■2003/09/01 (月) 「多様」といいながら「多様」を否定する謎

 またまた「働くということ」を取り上げる。きのうの日曜日にも掲載されていたので、まずはそれから。
 今回の結論である「創意工夫や卓抜なアイデアに価値を見いだす社会では、多様な生き方を受け入れる企業だけが生き延びる」というのは、「だけ」というのに若干誇張を感じるものの、まことに同感できる。しかし、「多様な生き方を受け入れる」ということは、決して従来型の「地道に勤勉に働き続けて技能を蓄積し、それに応じた処遇を受ける」という生き方を否定するものではないはずだ。それをシャカリキになって否定しようとしているところに日経の無理がある。
 たとえば、三菱商事の留学制度にしても、要するに帰国後5年間は勤続しなければ留学費用を返納してもらいます、という制度で、定着対策の強化が第一義のはずだ。すなわち、これは相当程度長期雇用を前提とした制度なのであり、「終身雇用の下で会社ともたれあう『中流秩序』(そんなものがあるかどうか知らないが)からの決別」とはむしろ逆の方向ではないか。ましてや、退職すれば数百万円から1千万円以上の金額を返納しなければいけない状態で就労していることが「会社に従属せず、対等な関係」とは笑わせる。
 ワトソンワイアットの社員家族旅行の話は初耳で、なかなか興味深かった。多様化が進む中では、企業理念、基本的な価値観を共有することの重要性はたしかに高まるだろう。そういう趣旨の事例としてならおおいに理解できる。
 ところが、この事例はなぜか「職能、家族、やりがい……。自分流の生きがいを求める人たちが『人並み』に安心感を抱く旧来の中流意識に風穴を開け、会社を『身を尽くす場』から『生き方を問う場』に変える。」と続いている。「家族」がキーワードの連想なのだろうが、理屈のつながりはなにもない。しかも、言葉はカッコイイが意味は不明だ。「身を尽くして生き方を問う」というのも立派な姿勢だと思うのだが、これは日経的にはダメなのだろうか。
 会社を休職して学生スポーツの指導にあたるのも、正社員にならずにカップルで夢を追うのも、個人の自由だし、立派な生き方になりうると思う。大切なことは多様な生き方を容認することで、企業がそれを支援することもいいことだと思う。それが「心の豊かさ」だろう。日経の狭量でかたくなな「中流否定」は、それと似てまったく非なるものであることに、どうして気付かないのだろうか。

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