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わが国の学生の学力低下が云われて久しい。大学の教員に聞けば、いわゆる 大学のレベルを問わず、一様に学生の学力低下を嘆く声を聞く。人材以外に資 源の乏しいわが国が、世界一の賃金水準を維持しつつ、これからますます激し さを増す国際競争の中で自らのポジションを確立していくためには、優れた人 材を一人でも多く育成するとともに、すべての人がより一層能力を高めていく ことが必要である。それを考えると、学生の学力低下はわが国の将来にとって まことに由々しき問題である。 ところが、わが国の教育は、学生の学力低下に符丁を合わせるように、どん どんレベルを落としているのが実情ではあるまいか。大学入試の科目が減って、 楽になったことで、物理を知らない理学部生、数学のできない経済学部生、生 物を十分学んでいない医学部生すらいるのだという。 初等中等教育も、「つめこみ教育」で「児童生徒の負担が重い」ということ で、「ゆとり教育」の名のもとに、数回にわたって楽にされてきた。それが児 童生徒の資質の向上につながっていないことは、今の高校・中学校のありさま を見れば一目瞭然だし、受験戦争が緩和された形跡もなく、子どもたちの塾通 いが減ったようにも見えない。要するに、まったく効果は上がっていないのだ。 「学力があぶない」は、こうした現状に対する、あらためての警鐘の書であ る。教育問題というのは、誰にとっても身近な問題であり、それなりに一言 持って議論できる問題である。それゆえに、その議論は拡散しやすく、コンセ ンサスを得ることは難しい。この本は二人の著者による共著であり、かつイン タビューや対談といった内容を多く含んでいるため、やはり議論が散漫になっ ている印象はぬぐいがたい。それにもかかわらず、教育の現状、学校の実態に 対する危機感は、ひしひしと伝わってくる。とにかく、今のままではいけない のだ、ということが強く訴求される。 特に著者たちが問題にしているのが、新学習指導要領である。 首都圏の電車で通勤していると、某大手学習塾の車内広告で、小学校の算数 の教科書から台形の面積の公式がなくなるとか、円周率は「およそ3」という ことで計算する、などと記載されているのが目につく。実際、来年4月から適 用される新しい学習指導要領を見ると、確かに台形の面積の公式は姿を消して いるし、円周率は3.14という数字は教えることになっているものの、小数の計 算は10分の1位(小数点下一桁)のものしか扱わないことになっているので、 円周や円の面積の計算には「3」を用いるとされている。さらに、分数につい ても、仮分数や帯分数も教えはするが、計算は真分数のみを扱うとされている。 他にも、整数の掛け算については2桁のものしか扱わないとか、驚くような内 容になっている。これはどういうことかと云うと、例えば、小数点下2桁の計 算を扱わないということは、(外税価格×0.05)という消費税の計算がで きない中学生が出てくるということである。あるいは、3桁の掛け算を扱わな いということは、25グラムのパンが400個あれば10000グラム=10キロ グラムであるという単位の換算は小学生にはできないということである。小学 校で教える算数だけでは日常生活にも支障があるということになる。これは中 学校においても同様で、例えば2次方程式の解の公式は姿を消す。わざわざ、 「2次方程式の解の公式は取り扱わない。」と明記してあるのだ。 これだけ内容が減るのは、学習時間が減っているのも一因である。小学校は 学年ごとに時間が違うので中学校で見てみると、全体の学習時間は1050時間か ら980時間へと70時間減少する。これはおおむね学校の完全週休2日制移 行に見合うものだろう。さらに、今回の新学習指導要領の目玉ということで、 「総合的な学習の時間」が70時間設けられる。すなわち、従来教科は年間 140時間の減少である。しかも、どの教科が減らされるかは学年によって異 なるのだが、体育だけは3年間を通じて減らされていないし、家庭科も事実上 減らされていないに等しい。どこで減らしているかと云えば、国語と数学だけ で実に175時間減らされている。3年で420時間減らすのだから、4割以 上を国語と数学で減らしていることになる。「覚える教育から考える教育」と いうスローガンが金科玉条のように言われる中で、もっとも「物事を考える」 ことのできる教科である国語と数学がもっぱら減らされているのだ。 そもそも、ゆとり教育とか、落ちこぼれを作らないとか、みんなが理解でき るとかいうことをめざして学習指導要領を変えるのであれば、内容は減らして も、時間は減らさないのが正論である。少なくなった内容を時間をかけてゆっ くり学ぶから、理解が進むのである。ところが、これまでのゆとり教育路線は、 むしろ授業時間を減らすことが主眼になっていて、それに合わせて内容を減ら していたのではないか、と著者たちは云う。そして、授業時間が減った分、た とえば計算問題の練習のような勉強が学校でできなくなり、それは「家でやっ ていらっしゃい」ということになった。ところが、過去のデータを見ると、家 で勉強するはずの「ゆとり」の時間は、結局テレビを見たりゲームをやったり する時間に化けてしまった。これでは、基礎的な学力がつかないのも当然であ り、基礎がダメなら応用もダメというのも理の当然である。 今回の新学習指導要領も、基本的にはこれまでとよく似た発想、内容も時間 も減らすのがゆとりであるという発想で作られている。とすれば、これがこれ までと同じ轍を踏むこともまた目に見えている。しかも、新たに導入される 「総合学習」というのは、「各学校でくふうして実施する」とされていて、特 段のガイドラインなどもないのだという。通常、企業が内部で研修を行うとき には、社員に広く受講させる前に、まず講師となるべき人が集まって、教える べき内容や教え方について研鑚するのが当たり前である。ところが、今回新規 導入の「総合学習」には、そのようなことがなにもないというのである。 著者たちは、現状を打開していくためのアイデアをいくつも提示している。 それはたしかに、首尾一貫した提言というまでは至っておらず、議論の材料や 方向性を提示したというレベルのものである。それよりなにより、著者たちは、 「まず平成14年からの新学習指導要領の導入をやめること」が喫緊の課題で あると声高に説く。この一点については、おそらく新学習指導要領の内容を知 る国民であれば、心のどこかに強く引っかかっているものであり、この書を読 めば疑問の念なく賛同できることであると思う。それをまずやろうというので ある。説得力ある意見だと思う。 最近の報道によれば、イギリスで採用されている能力別クラスも、必ずしも 好ましい効果を上げていないのだという。能力と進み方とがうまく一致してい ないのが原因のようだが、ことほどさように教育というのは難しいもので、単 純な解決策は見出しにくい。これは結局、一人ひとり異なった個性、意欲、能 力をもつ子どもたちに、かなりの程度一律の教育を施さなければならないとい う学校教育の根本的な矛盾、無理に由来するものだろうか。誰もが等しくわか り、できるというのは、たしかに理想であり、永遠に追求すべき悲願であるの かも知れない。とはいえ、人間は生まれつき等しくないことは、厳然たる事実 である。この事実をありのままに受け入れ、学校教育の矛盾と無理に正対する ことが、世間で繰り返し語られる「教育改革」のスタート地点なのではあるま いか。 |