玄田有史・中田喜文編 大日康史・太田總一・大竹文雄ほか著

「リストラと転職のメカニズム−労働移動の経済学」

東洋経済新報社



 書名や装丁からは一見ありがちな経済本に見えるが、副題の「労働移動の経済学」が示すとおり、かなりハードな労働経済学の論文集である。俗に「日本の失われた10年」と称される1990年代に、わが国の労働市場にはかつてない変動があったわけだが、そのさまざまな側面がとりあげられ、若手からベテランまで幅広い実力派研究者によって経済学的な分析が加えられている。
 編者の意図は、「不正確な事実認識に基づく『常識』が流通することに危惧を感じ、データからできうるかぎり正確な事実を提供しようとした」点にあるという。実際、企業の現場で人事・労務管理にあたっている担当者の立場から見ても、世にいわれる『常識』の中には、実務実感に合わないものも多々見受けられるわけだが、本書の分析結果の多くは、『常識』に対して否定的であり、実務家の実感に対しては、ストレートにそのままではないにしても、整合的なものとなっている。
 たとえば、高失業などの雇用問題について「労働市場の構造的問題」であり、必要な対策は「ミスマッチ解消のための職業訓練」や「労働力の流動化促進」あるいは「セーフティネットの強化、特に失業給付の充実」であるという『常識』はかなり強く主張されてきた。しかし、実務実感としては、最大の問題は需要不足以外のなにものでもない。需要のないところで職業訓練をしてみたところでほとんど無駄だし、労働需要が旺盛な時期にはそれなりに「流動化」していたという実感があるからだ。そして、序章で指摘されているとおり、この本に収められた論文の多くはこうした実感を支持している。
 あるいは、90年代に非正規雇用の割合が高まったことをもって、企業が長期雇用を軽視、あるいは放棄しはじめたという『常識』も多く語られているように思うが、宮本大・中田喜文「正規従業員の雇用削減と非正規労働の増加」の結論は、企業は依然として長期雇用を重視しているがゆえに、雇用の調整弁としての非正規雇用を増やしているという実務実感に整合する。年功賃金については長期雇用以上に批判が強いわけだが、それでもなお実務家は年功賃金に(かなりの条件付ではあるが)相当の有用性を認めている。岡村和明「年功的処遇と雇用」は、こうした実務実感に対するひとつの傍証となるだろう。その裏返しとして、優秀な人材を確保するためには「成果主義」によって即座に「高い賃金」を支払わなければならない、という『常識』も広く主張されているが、大橋勇雄・中村二朗「転職のメカニズムとその効果」は、本人の意欲・能力にマッチする仕事を提供することで、必ずしも即座に高い賃金を提示しなくても優秀な人材が確保できる可能性が高いことを示唆している。これはひいては、「カネだけが報酬ではない」というごく単純な実務実感に通じるものでもあるだろう。
 太田總一「若年失業の再検討:その経済的背景」は、UV分析を使って年齢階級ごとの需要不足失業と摩擦的・構造的失業の比較を試みている。UV分析は需要不足を過小評価するというのが実務実感だが、年齢階級ごとの比較に利用するには有益なのだろう。たしかに、若年者の意識が世間でいわれるほど大きく変化してはいないという指摘は、多くの学生と接する実務家の実感にも整合する。パラサイト・シングルが社会現象として存在することも否定できない事実だが、それは就職環境の極端な悪さによる「やむにやまれぬもの」なのだろう(パラサイト・シングル論も、そもそもは意識の「変化」を特に強調してはいなかったように記憶している)。
 さて、そもそも、これら『常識』を流布した人の中には、かなりの多数、相当の割合で「経済学者」、それも有力な経済学者が含まれている。限られた時間、限られたデータでなんらかのコメントを行わなければならない状況では、それも致し方のないことかもしれない。編者は、これら『常識』の流布を許した最大の原因は「正確な分析に必要なデータの利用機会がきわめて限られていた」ことにあると述べている。分析手法を論じるのは研究者ではない私の任ではまったくないが、この本に収められた論文の多くが、分析に用いるデータの確保や、必ずしも十分でないデータからいかに正確な分析を行うかに多大な苦心をはらっていることは素人にも感じ取れる。これはいっぽうで、これらの分析の結論にも一定の留保がつくということでもあり、各論文ともその点に言及している。そうした中であるにもかかわらず、先行した『常識』に対して追試が行われ、修正が試みられていることは、私にはたいへん立派なことのように思える。いずれにしても、研究者が多くの良質なデータにアクセスできるようにしていくことは、優れた政策立案・政策決定にとってきわめて重要な課題であるということだろう。
 実務家としても、実務実感にはあわないような施策を、上層部の意向(まさに、大竹文雄・谷坂紀子「雇用削減行動と株価」が取り上げているような「株価を上げる」といったような)や、コンサルタントの「助言・提案」に沿って実施してしまった部分があることは、反省が必要なのではないだろうか。実際、名だたる大企業で、導入当時は先進事例としてもてはやされた施策が撤回されるようなケースも相次いでいる。実務家はもっとプロとしての自信を持ってもいいと思う。そしてこの本は、その自信に一定の裏づけを与えてくれる貴重な存在であり、研究書ではあるが、実務家にとっても苦労して読む意義は大きいと思われる。

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