■2001/05/18 (金) 特定財源の見直し

 ガソリン税とか自動車重量税などの、道路特定財源を一般財源に変更し、環
境対策や都市政策に使おうという話が持ち上がっている。常識的に考えて、特
定財源というのは硬直的だし、既得権になりやすいから、あまり上等なもので
はないだろう。また、自動車が道路を傷めるだけではなく、環境や渋滞問題な
ども起こしていることは事実なので、こうした用途に転用するというのはわか
りやすい。現実には、道路建設には建設国債のカネも注ぎ込まれているだろう
から、建設国債の償還に特定財源を転用するというのも一つの理屈ではないか
という気もする。
 言い出したのは塩川財相で、これは財務官僚の意を受けたという部分も大き
いだろうから当然として、小泉首相も国債は30兆円以下とか増税はしないと
か言っていることもあり、かなり前向きらしい。
 実際には利権もたくさん絡んでいるし、自動車業界や建設業界は反対だろう
し、一部の大都市圏を除けば地方も反対だろうから、相当の力技になるだろう
が、どうなるものやらという感じではある。
 それにしても、自動車ユーザーの立場からすれば、自動車がらみの税金はや
たらに種類が多い(そう言えば自動車税の請求が来ていたなあ(泣))、よっ
てたかって税金を取られているという感じなのはなんとかしてほしいと思う。
見直すなら一部はユーザーにも還元してほしいものだ。必要ならその分他の税を上げて取ればよいのだ。

■2001/05/17 (木) 外国人の地方参政権

 公明党が、外国人定住者への地方参政権の付与に熱心だ。これはどうやら、
公明党の支持母体である創価学会に在日韓国人・朝鮮人が多いという事情があ
るらしい。彼らの言い分は、税金も納め、地域の役割も果たしているのだから、
国政はともかく地方参政権は与えてもいいじゃないか、ということらしい。
 しかし、これはとんでもない議論というべきだろう。そもそも、外国人に地
方参政権を与えている国は非常に珍しいし、それも、相互主義、すなわち二国
間で先方も当方も互いに与えるという形が多いはずである。それが最低限だろ
う。
 仮に外国人に地方参政権を与えたとしよう。そうなると、例えば票数にして
数千票くらいの組織力があれば、人口一万人くらいの小さな町に集団で住民票
を移して自国人の町長を選出し、議会圧倒多数を制することも可能になる。そ
うなれば、その町は日本の中に事実上の植民地を設けることになる。極端な話
だが、そこから同国人をどんどん不法に入国させ、あるいは出国させることな
ど簡単な話だし、覚醒剤でもピストルでも持ち込み放題になる。これは決して
非現実的ではないし、冗談抜きで国を滅ぼしかねない。
 自民党の当選一回生は全員がこれに反対の意向を示したそうだが、当然の見
識だろう。

■2001/05/16 (水) 行政の無謬性

 大阪ハンセン病訴訟で、国の責任を全面的に認める判決が出た。判決によれ
ば、1960年にはすでにハンセン病患者を隔離する必要はなくなっていたに
もかかわらず、らい予防法を廃止しなかったのは憲法違反であり、その不作為
により患者が被った損害を賠償する責任がある、とのこと。また、国会にも廃
止しなかった責任があるとしているらしい。
 国は控訴するかどうか検討中とのことだが、確かにハンセン病はもともと感
染力が非常に弱い上、60年頃には薬物による治療法も存在していたわけなの
で、行政の不作為の責任は重いと言わざるを得ないだろう。
 とは言え、「1960年には不要になっていた」というのは、かなり結果論
くさいことも事実である。実際、60年当時の社会的な雰囲気としては、ハン
セン病は恐ろしい病気であり、患者は隔離されてしかるべきであるとの風潮は
根強かったのではないか。
 官僚の無謬神話が、わが国官僚制の最大の問題の一つと言われている。行政、
官僚は「絶対に間違ってはならない」とされ、それゆえ「絶対に間違わない」
という神話が出来上がる。しかし現実には官僚も人の子だから間違わないわけ
はないし、また、政治家が間違うことだって多いだろう。それでも間違いまし
たとは言えないがために、間違ったことが是正されない。
 これは大問題であり、官僚を無謬神話から開放してあげることが大切なのだ
が、今回の判決も、やはり官僚に「無謬」を強いる内容になっている。もちろ
ん、国も行政も最善を尽くすことは大切だが、それで無謬になるわけもない。
 官僚が無謬であれば、らい予防法を60年に廃止できたであろう。もちろん、
90年代までそれがずれ込んだのは怠慢であるには違いない。しかし、あまり
に司法が行政に無謬を求めることが本当にいいのかどうかは私には疑問である。

■2001/05/15 (火) 捨てられる人、捨てる人

 私の職場では「日経ビジネス」が回覧されることになっていて、4月2日号
が今ごろになって回ってきたので読んでみた。特集は「しがらみを断ち切れ」
ということで、「我が社の『非情人事』作戦」となっている。
 ざっとナナメ読みしてみると、まずは日産と日立の事例が出てくる。日産が
子会社から有能な人材を引き抜いたとか、日立が抜擢人事をやろうとしている
とかいう話で、特段目新しい話はない。その他の事例も当たり前の話が書いて
あるばかりで、いったい何を言いたいのだろうという感じだ。少なくとも、し
がらみがどうとか非情がどうとかいう感じは全然しない。
 ところが、最後のまとめの記事を読んでみると、なんとなく意図が透けて見
えてくる。なにしろ、4ページ中3ページがマツダの希望退職の記事である。
社員が会社を捨てたということがいいたいらしい。そして、「会社にとって必
要ないと判断された人材は容赦なく捨てられてしまう。半面、社員にとって魅
力を失った企業からは、できる人材が逃げていく」とくる。しかし、後段の方
は一応マツダの事例が書いてはあるが、前段については実は何の根拠もない。
日産や日立が「不要な人材を容赦なく捨てて」いるだろうか?まったくそんな
ことはないだろう。立派な(と日経ビジネスが思っている)経営改革の例をあ
げて、なんの脈絡もなく「不要な人材は容赦なく捨てられる」という結論を持
ってきている。これはいったい何なのか?
 この記事のラストの「決め」のセリフは、「いつどんな場合でも、捨てられ
るより捨てる方がいいに決まっているのだから」というものである。さぞかし
うっとりしているのだろうが、私はあまりの情けなさに暗澹たる気持ちになっ
た。「いつどんな場合でも」捨てられるより捨てる方がいい、というのは、ま
さに究極のエゴイズムだろう。それを平然と言い放って得意になっているとい
うのはどういう神経なのだろう。いくらビジネス誌でも、許されることと許さ
れないことがあるのではないだろうか。
 そんな場合は多くはないだろうし、なるべくないことを祈るが、それでも場
合によっては、捨てる人ではなく捨てられる人になれる、そういう人に私はな
りたいと思う。それが普通の神経だろう。

■2001/05/14 (月) 古くて新しい問題

 ひと月くらい前の日経新聞の社説で、わが国の構造問題の一つとして「世界
最高水準の賃金」があげられていた。その翌日の日経新聞の特集記事でも、売
れっ子アナリストの松井キャシー女史のインタビューで、「ホワイトカラーを
中心に賃金が下がっておらず、労働分配率も高い」ことが問題視されていたの
で印象に残った。
 要するに、不況にもかかわらず労働者への分配は減らず、その分資本家の取
り分が減り、結果として資本家に取り入って食っている日経新聞やアナリスト
の取り分も減っている、それがけしからん、ということなのだろう。これは端
的に言えば資本家はもっと労働者を搾取して利益を上げよと経営陣に迫り、労
働者はそれに対抗するという、実に古典的な図式である。今や年金基金などを
通じてほとんどの勤労者が「間接的にせよ」資本市場につながっている現代に
おいても、世の中の基本構造というのはあまり変わらないらしい。
 経営者としてはつらいところだ。勤労者というのは一方で顧客であり(特に
最終消費財メーカーや第三次産業の多くにとっては直接的に)、賃金というの
は一方で購買力である。自分だけバンバン解雇ができて、ヨソはできないとい
うならそれが一番いいが、みんなでじゃんじゃん解雇をはじめたら、一種のと
てつもない合成の誤謬で、経済全体がクランチしてしまうからだ。
 フランスでは、リストラしようとしている企業の株を一斉に売るよう、労組
が投資家に働きかけているとか。これまた経営者にはつらい状況である。まあ、
資本家と労働者の板ばさみになって経営者がしんどい思いをするというのが、
これまた資本主義社会の昔からの通例ではあるのだが。
 社会主義革命の実験なども経て、人類はずいぶん資本主義社会の問題点を克
服してきたはずなのだが、まだまだ解決は難しいということらしい。

                 






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