数字をつついてみたところで(15.3.10)



 先月末、金属労協が日本経団連の「経営労働政策委員会(経労委)報告」(昨年までの労問研報告)に掲載されているデータに問題があるなどとして、3つの質問からなる公開質問状を渡したそうです。
 第一にあげられているのが賃金の国際比較のデータです。経労委報告はこれをもとに日本の賃金が先進諸国中最高水準であると主張しているわけですが、金属労協は、その計算に使われている労働時間の数字に、日本は年次有給休暇の時間が含まれていないのに対し、欧米諸国はこれが含まれていると指摘しています。そのうえで、実労働時間あたり人件費(福利厚生費をふくむ)で比較すれば日本は米・独両国に較べて高水準ではなく、先進諸国中で中位であると主張しています。
 金属労協はいきなり福利厚生費をふくむ人件費にスキップしていますが、まずは労働時間のカウントをそろえた場合に賃金(現金給与)がどうなるかをみておく必要があるでしょう。日本労働研究機構(JIL)が編集・発行している「データブック国際労働比較2003」(たいへんなスグレモノでおすすめです。以下、特にことわらない限りデータはすべてこれによります)によれば、JILが試算した2000年の製造業の時間あたり賃金は、日本を100とした指数で米国が89、英55、独112、仏87となっていますから、日本の時間当たり賃金が世界最高水準といってもおかしくない結果です。それがいいかどうかは別として、これを実労働時間ではなく、年次有給休暇をふくむ支払対象時間で計算すれば、年次有給休暇の取得のすくない日本はさらに高水準という結果がでるでしょう。また、春季労使交渉は一義的には組合員の賃金を決定するわけですから、これらのデータには日本では組織率のきわめて低いパートタイマーが含まれていることにも留意する必要があります。日本は諸外国と較べて特に正社員とパートタイマーの賃金格差が大きいので、影響は大きくないかもしれませんが、日本の組合員の実態はこれらのデータ以上に高いと考えるべきでしょう。
 次に、福利厚生を含めた労働費用がどうかという問題ですが、春季労使交渉のデータとして、金属労協が主張するように福利厚生費を含めた人件費を用いることが適当かどうかも必ずしも疑問がないではありません。もちろん、日本経団連も総額人件費重視を主張しているように、福利厚生費をふくめた人件費のデータはむしろ経営サイドにとって重要なものです。しかし、春季労使交渉では組合員の賃金を交渉するわけですから、賃金(現金給与)の比較もやはり重要でしょう。特に、労働費用に占める法定福利費の割合が日本(1998)が9.5%なのに対し、フランス(1996)は21.2%となっているなど、国によってかなり異なることには注意が必要です。法定福利費の違いが労働費用の格差に大きく寄与しているのであれば、賃金の引き上げではなく社会保障の充実(当然、企業だけでなく労働者にとっても負担増となる)などを主張するのが正論ということになるでしょう。
 しかも、金属労協は福利厚生を含めた時間あたり人件費は「米・独両国に較べて高水準ではない」と主張しますが、やはりJILが試算した2000年の実労働時間あたり労働費用は、日本を100とした指数で米国が92、英70、独87、仏110となっており、日本が米・独より高水準になっています。
 もちろん、金属労協もそれなりの根拠をもって主張しているものと思います。こうした国際比較は、為替レートによる変化も大きいので、とりわけ春季労使交渉のような実務的な場面ではだいたいの傾向をつかむために有用であればいいわけで、その精度に過度にこだわるのは意味がないのではないでしょうか。経労委報告のデータが金属労協が指摘するような大雑把なものであることは事実でしょうから、日本経団連にはデータの精度向上を期待したいところですが、傾向としては日本の賃金水準は世界でも高いことに変わりはなく、これが春季労使交渉の帰趨に影響を与えるとは考えにくいと思います。
 次に金属労協が問題視しているのが、労働分配率のデータです。もともと労働分配率というのはやっかいな指標で、さまざまな計算方法(昭和63年版労働白書では7種類の計算が紹介されています)があり、さまざまな結果が出るうえに、それぞれに問題点もあります。結局のところは目的にあった計算方法を使うべきということになるわけですが、春季労使交渉にかぎらず、さまざまな場面で好都合な計算結果が使われる傾向があるとも言われてきているわけですから、これを問題視するのは今さらという感もあります。
 経労委報告が用いているデータは「雇用者報酬/国民所得」という計算によるものですが、これに対して金属労協は、国民所得には減価償却が含まれていないことや、自営業者の所得が含まれていることなど、やはりかねてから指摘されている問題点をあげ、この計算では労働分配率が上昇傾向となると主張したうえで、「雇用者一人あたり名目報酬/就業者一人あたり名目GDP」で計算された労働分配率でみれば、90年代後半以降低下傾向にある、と主張しています。
 まず実態をみると、やはりJILが発行している「ユースフル労働統計2002」(これまた本当にユースフルでおすすめです。ちなみにこの本には労働分配率計測の問題点に関するコンパクトな解説があり、その中でも金属労協の主張する問題点が説明されています)を見ると、金属労協の主張する「雇用者一人あたり名目報酬/就業者一人あたり名目GDP」は、1990年代を通じて86.2%から89.1%という狭いレンジで推移しており、しかも95年に最高値の89.1%をつけたあと、98年にもやはり最高値の89.1%をつけています。「90年代後半以降低下傾向にある」という主張には若干解せないものがありますが、これはおそらく2000年以降の数字を加えるとそう見えるのでしょう。
 さて、それではどのような計算式が妥当かということですが、経労委報告が用いている計算式は、数多い労働分配率指標の中でももっとも頻繁に使われているポピュラーなものであることには注意が必要でしょう。しかも、これは国際比較をしていますので、国際比較が容易であるという点でも妥当性を主張できるものと思います。
 また、金属労協が「もともと上昇傾向のある指標を用いて労働分配率の上昇を喧伝することは、日本経済のミスリードにつながる」と主張しているのにはいささか疑問があります。金属労協は国民所得に減価償却が含まれていないために労働分配率が上昇傾向をもつ、と主張していますが、これは他の計算方法との比較上労働分配率が高めに出る理由にはなっても、時系列的に労働分配率が上昇する理由にはならないものと思われます。金属労協はもうひとつ、自営業者が廃業しているので労働分配率が上昇傾向を示すと主張していますが、これは逆にいえば自営業者の開業が廃業を上回るような好況期には労働分配率は下降傾向となるわけです(日本の自営業比率は欧米より高く、中長期的に低下トレンドにあることは事実ですが、いっぽうで欧米ではここ十数年は上昇トレンドにあります)。
 私の理解に誤りがあるかもしれませんが、いずれにしても、根拠のあるデータをもとに経済の実情を反映する指標を提示しているわけですから、「経済をミスリード」とはいえないはずです。むしろ、あたかも経労委報告の計算方法だといかなる状況でも結果が上昇傾向となるかのような金属労協の言い方のほうがミスリードといえないこともありません。
 そもそも、この公開質問状自体のなかで金属労協自身が現状について「労働分配率の低下、人件費の引き下げでしか利益を出せない状況」と述べていますが、これは経労委報告のいう「労働分配率が上昇して企業経営を圧迫している」という主張と意味するところはほとんど同じではないでしょうか。賃金の国際比較と同様に、企業経営などの実態がどうかが問題なのであり、労働分配率の計算方法や結果の数字のテクニカルな議論が春季労使交渉の結果に影響するとは考えにくいと思います。
 3つめの質問はデータではなく、賃金制度改定の手続きに関するものです。金属労協は賃金制度改定そのものについては是認したうえで、その手続きに関して「制度改定というものは、その都度必要性に基づいて通年的に行うものであり」、「今日までそうした点にふれることさえなかった企業が、組合が現行制度に基づいて要求した機会を捉えて、取って付けたように制度改定を唱えるのは労使の信頼関係を根本から損なうもの」と主張しています。
 これは要するに、春季労使交渉では労組の要求についてのみ議論すべきであり、その他の事項は別途の場で議論すべきだ、ということでしょう。こうした考え方自体は、労組の運動論にしか過ぎず、経営サイドとしては要求があればいつでも誠実に交渉に応じるし、経営サイドからの逆提案も随時行わせてもらうという姿勢だろうと思います。一部には金属労協が述べているような慣行が長期にわたって成立していると考えられる実態もたしかにあります。金属労協傘下の労組において、昨年の春季労使交渉において、いったんは「賃金制度維持」の回答をいったん得て、しかるのちにおもむろに各労使がベダや提唱凍結の議論に入ったのは、まさに金属労協の主張する手続きを遵守したものといえると思います。
 しかし、こうした昨年の電機労使のふるまいが、世間の多くからは相当の違和感を持ってみられたということは、いっぽうで重視すべきではないでしょうか。これはすなわち、電機労使のような考え方がすべての労使に浸透し、定着しているとまではいえないということを意味していると考えられます。賃上げ要求も賃金制度改定も賃金に関するテーマであることを考えれば、これらを春季労使交渉で統一的に扱うことも、まったく排除するべきではないかと思います(もちろん、従来からの労使関係に配慮して別途に取り扱うのは立派な態度だと思いますし、逆に労組の要求に対して誠実に議論することもなく、問答無用で制度改定をおしつけるようなやり方をするのは論外だと思います)。
 そう考えれば、日本経団連にむかって「労使関係の基本的なルールさえも疎かにする意図を持っている」と批判するのは行きすぎでしょう。公開質問状では続けて「日常的に労使協議を尽くすべく指導を強化すべき」と述べていますが、すでに経労委報告には同趣旨の記述があり、日本経団連としてそれを奨励しています。日本経団連が、産業界の一部で成立している慣行を全産業に拡大させようとしていないことをもって「基本的なルールを疎かにする」とまではいえないのではないでしょうか。
 こうしてみると、今回の公開質問状、とりわけ最初の2つの質問は、本筋にはあまり影響のない細部を大仰に言いすぎている感があります。統計数字の不備をつついて鬼の首を取ったような顔をしてみたところで、経済や経営の実態が変化するわけではありません。データの精度はもちろん大切ですが、公開質問状のような大層な手数をかけるほどのことでしょうか。
 金属労協は、労働界でももっとも先進的で現実的な取り組みを意欲的にすすめており、その活動は非常に高く評価されるべきものであると思います。それだけに、揚げ足取りやあら探しに精力を費やすことなく、新たな労使関係の地平にむけての活動に邁進されることを期待したいものです。

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