特許訴訟の背後にあるもの(15.7.10)



 このところ、企業勤務の技術者が、職務上の発明の特許について対価を求める裁判が目立ちます。もともと、特許法第35条は、職務発明についても特許権は発明者にあるとしたうえで、就業規則などで定めがあれば、職務発明は会社の帰属になるが、発明者は「相当の対価」の支払いを受ける権利があると規定しており、従来からこの「相当の対価」をめぐる訴訟はいくつもありました。
 最近では、日亜化学の元社員の中村修二氏が、青色発光ダイオードの特許について20億円(その後50億円に増額)という巨額の対価を求める訴訟を起こし、中村氏の特異なキャラクターや、日亜化学が豊田合成と特許侵害の訴訟を争っていたことなどもあいまって、この「特許の対価」の問題が広く知られるきっかけとなりました。
 最近の動向を見ると、この4月には、オリンパス光学の元社員が光ディスク読み取り装置の特許について起こした訴訟で、最高裁が「会社が支払った対価は十分ではなかった」として、228万円の支払を認める判決を出しました。これは、「発明報酬に関する就業規則などの定めがあっても、特許法35条の『相当な対価』に満たない場合は不足額を請求できる」という初めての最高裁判決ということで注目されました。
 これに先立つ昨年11月には、日立製作所の元社員がやはり光ディスクのデータ読み取りに関する技術の特許の対価を求めた事件で、東京地裁が3,489万円の支払を命じる判決を出しました。これは、同種の事件としては最高額ということで、やはり注目を集めました。
 また、さらにそれに先立つ昨年9月には、味の素の元社員が合成甘味料の製法特許をめぐって20億円の支払を求める訴訟を起こし、その金額の大きさで話題になりました(もっとも、オリンパス光学事件、日立製作所事件も、原告の元社員が請求した金額はそれぞれ2億円(2審で5,200万円に減額変更)、9億7,000万円でしたから、それぞれかなりの巨額であるといえます)。
 ちなみに、発明時にそれぞれの企業が原告に支払った「対価」は、オリンパス光学が20万円、日立製作所が230万円で、味の素は1,000万円(ただし、これは他の特許の分も含んでいると思われる)で、これが高いか低いかはなんとも評価できませんが、少なくともゼロではない、それなりの額であることは認めなければならないでしょう。
 こうした動きの中で、民間企業850社で構成する日本知的財産協会は、特許法35条を改正し、米国のように企業と個人との契約で対価を決めるべきだと提言しています。現行法では対価の計算方法があいまいで結局は裁判で決めるしかなく、これでは企業が技術開発への投資に慎重になる可能性もありますから、この提言は妥当なものといえるでしょう。
 人事管理という面でも、いくつかの論点があるだろうと思います。まずあげられるのは、こうした発明に関しては、成功のチャンスだけではなく、失敗のリスクも企業が引き受けているということです。技術の先行研究・開発においては、20件のプロジェクトのうち1件か2件あたれば御の字というのがむしろ普通だろうと思います。会社が設備や費用を提供し、失敗しても雇用は維持され、それなりに賃金を支払われるわけですから、その分成功した場合の報酬もそれなりの水準にとどまるのは理にかなっています。オリンパスや日立の事件で、裁判所の認定額が原告の請求額を大きく下回っているのは、原告は特許によって得た利益や原告の貢献度を最大限に主張するのに対し、現実には裁判所は施設や資金を提供した会社の貢献や、上司や部下、同僚などの貢献などをかなり大幅に差し引くためですが、こうした人事管理であることを考えれば当然の配慮といえましょう(具体的には、日立製作所事件では裁判所はまず特許によって得た利益そのものを約2億5,000万円と原告主張よりかなり低めに見積もったうえで、会社の貢献が80%、原告と共同研究者の貢献を20%と評価して、3,500万円という認定を行なっています)。
 次の論点としては、職務発明に対するインセンティブは決して「発明報奨金」のような特許に対する直接の「対価」だけではない、ということです。もちろん、独自技術の開発の重要性が高まる中で、発明報奨金を大幅に引き上げる動きがあることも事実で、とりわけ技術開発の当たり外れの大きい製薬業界ではそうした動きが目立ちます(たとえば、武田薬品は年間最大3000万円、エーザイは発売から5年度分の売上額の0.05%、三共は最大6000万円など)。それでもなお、発明への報酬としては、処遇全体の中での昇進昇格や昇給、配置、権限の拡大などのほうがはるかに大きな役割をはたしているのが通常ではないでしょうか。これは日本だけに限ったことではなく、長岡貞男一橋大教授によれば、米国企業でも「報奨制度を設ける例は少なく、多くが昇給や昇進で発明者に報いている。」ということです。「対価」の判断には、本来ならこのような「処遇」で得られた報酬も考慮すべきだと思います(対価の算出はますます困難になりますが)。
 もうひとつの論点としては、その裏返しとして、会社による処遇に不満を持つことが、こうした訴訟の発端になるということです(日亜の中村氏がその典型で、訴額の大きさに氏の日亜に対する怨念を感じます)。オリンパス、日立、味の素の事件はいずれも、原告が定年したあとに提起されていますが、定年で会社生活が終わったところで、思い返せは自分は不遇であった、もう得るものも失うものがない、と感じたことが訴訟のはじまりなのでしょう。安全地帯から鉄砲を撃っているようなものですから、今後そこそこの額の支払を命じる判決が相次げば、定年退職した技術者は軒並み在職中の発明の対価を求めて訴訟を起こす可能性すらあります。
 たとえば、味の素事件の原告は、問題の発明のあと、中央研究所プロセス開発研究所長、東海工場長を勤めたあと、子会社の東洋製油社長として転出しています。この会社が味の素製油に吸収合併されたため、味の素製油専務となり、定年後も同社の技術顧問として処遇されています。一般サラリーマンの常識からすればけっこうな厚遇のように思われますが、それでも原告は不満があったのでしょうか。日経産業新聞のインタビューに対して、こんなことを答えています。
「特許が出願されてから事業として利益が出るまで十年以上が必要です。その間、利益の源泉を作り出した発明者は忘れ去られることが多い。利益が出る時点に近い作業を受け持った人たち、開発した人、生産や販売をうまくやった人たちが評価されやすいようです。」「もちろん開発や生産、販売はそれぞれ大切ですが、専門家であればまあ誰にでもこなせるものです。一方、事業利益の源泉となり、抜本的なコスト低減を可能にする発明は誰にでもできることではない。」
 かなり一面的な見方で、自己中心的と云ったら気の毒かもしれませんが、いずれにせよこれが原告の本音だったのでしょう。
 具体的になにが不満だったのかは憶測するしかありませんが、味の素本体で取締役になれなかった(らしい)ことを冷遇と感じたのか、あるいは東洋製油の合併で専務に「格下げ」されたことに納得できなかったのでしょうか。
 もちろん、このような不満はなるべく出ないにこしたことはありませんし、誰もが納得できるような人事、処遇を行なうように努めるのが人事担当者の役割、責任というものだろうとも思います。とはいえ、多くの場合人間は自分自身を過大評価しがちですし、周囲の評価と本人の評価が一致しないこともめずらしくありません。そのような限界があるなかで、すべての人を満足させる処遇を行なうことはおよそ不可能でしょう。
 ましてや、今後はポスト詰まり・仕事詰まりの一層の深刻化や、成果主義人事の拡大などで、不満を持つ従業員がさらに増える可能性もあります。こうしたなかで、このような訴訟リスクを回避するのは人事管理の手にあまると言わざるを得ないでしょう。
 そういう意味で、人事管理の観点からも、特許法35条の見直しは必要不可欠であると思われます。人事担当者の次なる課題は、法改正後にどのような「発明に関する事前の取り決め」を作るかを検討することになりそうです。

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