五輪代表選考と人事評価 その2(16.4.5)



 今回は前回に引き続き、女子マラソンの五輪代表選考を、人事評価の観点から考えていきたいと思います。
 前回、今回の顛末は一応「客観性を重視した選考結果が、世間の体感的な合理性と一致しなかった」とまとめましたが、それではこの選考がどれほど「客観的」だったかというと、それはそれでまた疑問があります。
 繰り返しになりますが、今回の2人の代表の選考基準は「各選考会の日本人上位の競技者の中から本大会でメダル獲得または入賞が期待される」というものでした。これは「各選考会」「日本人上位」「期待される」という3つの要素から成り立っていますが、本当に客観的なのは、事前に3レースが設定されていた「各選考会」だけです。「日本人上位」は「上位」であって「最上位」ではありませんから、どこまで含むのかはあいまいですし、「期待される」になると、これは相当程度個人の主観が入り込むでしょう。
 これら2つのあいまいな要素については、今回の選考結果発表の際の日本陸連の説明をみると「上位」については「最上位」、「期待される」については「各選考会のタイムで判断し、選考会以外の実績は考慮しない」という考え方がとられたようです。この「選考会以外の実績は考慮しない」という点が「恣意が入らず客観的」との印象を与え、世間の3分の2の人から「当然」「納得できる」との支持を集め、マスコミからも、たとえば日経新聞が3月16日朝刊の解説記事で、「説明責任が求められる時代、あいまいな選ぶ側の論理は通用しない」「陸連は筋を通した」と書いたように、好意的な評価を得ることに成功したのでしょう。
 とはいえ、「このような考え方を採用する」という点に関しては、結局は恣意的に決められたということは否定できません。たとえば、この考え方のうち「上位」を「最上位」ではなく「2位以内」という「考え方」で選考したとしたら、大阪国際マラソン1位の坂本直子選手ではなく、選考会のタイムで勝る名古屋国際マラソン2位の田中めぐみ選手が選ばれていたことになります。結局、「上位」を「2位以上」にせずに「最上位」としたのは、恣意的な判断以外のなにものでもありません。要するに、結果が出てからルールを決めること自体が恣意以外のなにものでもなく、逆にいえば、最初から「上位」ではなく「最上位」としておけば、これに関しては恣意の入らない選考になっていたはずです(それが最善の結果を保証するものではありませんが)。
 人事評価の世界では、評価に納得を得るためには「できるだけ合理的、客観的な基準を策定」し、さらにそれを「(評価が行われる前に)開示する」ことが重要であることは常識です。事前には「だいたいこんな基準で評価します」とだけ伝え、評価されてから「実はこういう意味だった」といわれたのでは、低い評価を受けた人は「だったらそうと最初から言ってくれれば」といいたくなるでしょう(実際、高橋選手の指導者の小出義雄氏は、「最初からそう言ってくれれば名古屋を走らせていた」と発言したそうです)。ですから、世論はともかくとしても、マスコミが今回の選考を「説明責任が求められる時代」に「筋を通した」などと評価するのはいささか能天気の感を免れません。
 さて、それではどのような選考方法が好ましいのかを考えてみたいと思います。前回紹介したスポーツ報知のアンケート調査では、「選考方法についてどう思うか」という設問に対して「現状のままで良い」という回答は18.5%にとどまり、「一発勝負にすべき」が49.1%、その他が32.4%となっています。
 「一発勝負」というのは究極の客観的選考でしょうから、世論がいかに客観性を求めているのかがわかります。とはいえ、かつて男子マラソンが1988年のソウル五輪の代表選考で福岡国際マラソンでの一発選考を試みた際には、当時の第一人者だった瀬古利彦選手が故障で当該レースに参加できなくなるという問題が起きました(このときは、瀬古選手についてはびわ湖国際マラソンで優勝すれば代表に選ぶ、という特例が追加されました)。必ずベストコンディションに調整でき、どんな条件でも勝てるという傑出した選手はなかなかいないでしょうから、一発勝負にすると、故障や体調不良、あるいは当日の気象条件の得手不得手、レース展開の有利不利といったことに左右されて、「五輪で勝つために強い選手を選ぶ」という目的に対しては必ずしも合理的でない結果が出てしまうことが十分予想されます。前回も書いたように、「客観性」と「合理性」がトレードオフになってしまうわけです。
 ただ、こと世論に関するかぎりは、一発勝負で不合理な結果が出ても、「運も実力のうち」で、それはそれで仕方がない、という傾向があることは、前回も調査結果などを紹介したとおりです。実際、過去に選考が問題になったケースをみても、さきほどの瀬古選手の例をはじめ、92年のバルセロナ五輪、96年のアトランタ五輪の代表選考で、それぞれ選考会の成績(タイム)で勝る松野明美選手(92年)、鈴木博美選手(96年)が選ばれず、過去の実績に優れる有森裕子選手が選ばれた例など、「選考会結果にかかわらず、実績のある有名選手が優遇された」というケースが多いようです。これを、日本人(に限らないかもしれませんが)に多々みられる、「無名の選手が一生懸命努力して選考会に勝ったのに、有名選手のせいで出られないのはかわいそうだ」といったメンタリティの現れとみるのは通俗的すぎるでしょうか。「勝てなくてもいいから、がんばった選手を出場させてほしい」という心情は、「参加に意義あり」のオリンピック精神にも一致しているのかもしれません。
 いっぽうで、あくまで「五輪で勝つ」ことを重視し、合理的な選考を追求しようということであれば、客観性は思い切って犠牲にするという考え方もあるだろうと思います。複数の専門家が、選考会の結果に他の様々な条件も加味して、総合的な判断で決めるわけです。従来も、おおむねこうしたやり方がとられてきたといえるでしょう。
 これは、必ずしも世間の納得を得ることをあきらめる、ということではありません。選考体制や選考にあたる専門家たちが、世間から「あの人たちがああやって決めるなら、間違いないとまではいかなくてもベストに近いだろう」という信頼を得られればいいわけです。
 日本陸連がそれだけの信頼を得ているかどうかは別としても、少なくともさきほど紹介したケースの結果を見るかぎり、88年のソウル五輪では、瀬古選手は福岡国際1位の中山竹通選手には遅れたものの、同2位の新宅永灯至選手には先着しており、瀬古選手に特例を設けた陸連の判断は結果的に誤っていませんでした。92年のバルセロナ五輪、96年のアトランタ五輪でも、「実績で選ばれた」有森選手が2位、3位と、日本人で最高の成績を収め、選考のときには悪者扱いだった有森選手が一転して人気者になりました。すなわち、結果をみるかぎりでは日本陸連の「客観的ではない」判断にかなりの合理性があったということになります。
 そう考えると、今回の陸連の対応はいささか中途半端の感は否めないように思います。世間の納得を重視するか、合理性を重視するかは陸連の判断ですが、前者をとるなら、さらに明確な基準を設けて事前に公開すべき(一発勝負がいいかどうかはまた別の判断ですが)ですし、後者をとるなら、言い訳めいた理屈をつけるよりは、世間の信頼を得られるよう選考体制の整備とPRに努めるべきでしょう。もっとも、総合的な判断の余地を残しつつ、世論の求める客観性もそれなりに演出したという意味では、なかなか巧妙な対応だったという評価もできるのかもしれませんが。
 さいごに、人事評価だけでなく、人事管理全般の観点から私の個人的な感想を書かせていただきますと、今回の選考はそれなりに妥当だったのではないでしょうか。
 今回五輪に限らずに、長期的視野から考えれば、次世代の育成や競技人口の拡大といったことも重要な観点であり、そう考えれば、判断に迷うのであれば若手を登用するというのも立派な考え方だと思います。人事管理において、人材育成を重視するのと同じ考え方です。
 もっとも、超一流を育てるという観点からは、高橋選手のような国民的な人気者が活躍する場を増やすことが大切だという考え方もあると思いますので、一概にはいえないかもしれませんが、高橋選手の場合は、かつて選考で泣いた松野選手や鈴木選手とは異なり、すでに前回の五輪大会で優勝して、一応の大目標は達成していますから、それなりに割り切って後進に道を譲ることもできるのではないでしょうか。あれほどの人気者であれば、ほかにも活躍の道を探せるはずですし、実際、すでに高橋選手はこの4日に埼玉県吉川市で開かれる「吉川なまずの里マラソン大会」の一般5キロの部に特別参加することが決まっているそうです。これはマラソン競技の宣伝普及にたいへん有効なのではないかと思います。
 いずれにしても、優勝経験者を選外としてしまったわけですから、この判断でよかったというためには、かなりの結果を残す必要がありそうです。選手にとってはかなりのプレッシャーではないかと思いますが、誰もが「この選考でよかった」と感じるような、すばらしい成績を収めることを期待したいものです。

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