日亜化学事件、亡国の判決から考える その2(16.2.25)
〜 今度こそ「文理格差問題」に向き合うべき 〜




<その1>「「分配」「配分」の観点から考えよう」はこちらです。

 前回からの続きです。
 前回は企業内外のステーク・ホルダーのあいだでの分配について考えましたが、今回は一段狭いレベル、企業内の従業員のあいだでの配分(ここからは、賃金用語を使って「配分」といいましょう)について考えてみたいと思います。
 日亜化学事件の場合、会社の原告に対する対応もはなはだ拙劣だったようで、双方の間はひどくこじれていたようですが、同じく発明の対価をめぐって争っている他のいくつかの事件においても、原告の気持ちの根底にはほぼ例外なく「会社が自分に十分に報いなかった」との思いがあるように思われます。「企業を支えているのは技術力なのに、エンジニアの評価が低すぎる」というわけです(もっとも、なかには常識的なサラリーマンの感覚からすれば十分すぎるほど報いられているのではないかと思われる事件もあり、評価という問題の難しさをあらためて感じさせられます)。
 これはなかなか一筋縄ではいかない問題ですが、研究者・技術者の処遇をめぐって古くからある問題として、「文理格差問題」があります。すなわち、理系は文系に較べて処遇、とりわけ役員や幹部への昇進などにおいて不利なのではないか、という問題です。
 もちろん、文系は文系、理系は理系で、そのなかにはまたさまざまな仕事や人があるわけですから、必ずしも文系・理系で単純に二分できる問題ではありません。また、基本的には、企業のなかの多種多様な仕事について、それぞれの貢献度をどのように評価するかは、それこそ各企業の経営ポリシーによるものでしょう。人間だれしも自分の貢献度は高く評価したいものですから、どのような評価をしたとしても、エンジニアに限らず多くの人が「評価が低い」と感じるのも致し方のないことかもしれません。
 それでもなお、理系は文系に較べて昇進などにおいて不利である、と世間で広く感じられているということは、否定できないように思います。その代表的なのが高級官僚の世界で、一部官庁の例外を除けば事務次官はすべて文系(とりわけ法学部出身者)で占められており、それ以外の幹部ポストにおいても技官、いわゆるテクノクラートが占めるポストは限られたものにとどまっています。そして、わが国(には限らないのかもしれませんが)では民間企業もその機構は官庁に範をとったいわゆる官僚組織になっていることが多いせいか、経営陣や経営幹部のポストを占めるのは文系の出身者が多い傾向があるようです。
 それに加えて、「文理格差」をさらに強く感じさせる要因になっているのが、就職前の大学生の実態でしょう。いま現在やこれからは必ずしもそうではないのかもしれませんが、従来かなりの長きにわたって、法学部生や経済学部生の相当部分はどちらかといえば講義もさぼりがちで、サークル活動なども大いにエンジョイし、試験のときには他人の聴講ノートを借りてなんとか単位をそろえて卒業していく、という傾向が見られがちだというのがわが国の大学の実態ではなかったかと思います。それに対し、理系の学生はかなりの程度まじめに学業や研究に取り組まなければならず、そのため勉強以外のことを楽しむ余裕も乏しく、そのうえ学費も文系より高い、という現実が広く見られたように思います。さらにそれ以前の問題として、大学受験においても理系のほうが文系より負担が重いということもほぼ周知の事実といえるでしょう。このように、就職後の恵まれ方に較べて学生時代の苦労がかなり大きいと考えられたことが、いわゆる「学生の理工系離れ」を招いたということも、すでに数十年前から言われ続けてきました。
 とりあえず学生時代における投資にかなり差があるにもかかわらず、多くの企業では、建前としては「学歴としては同じ大卒なのだから」ということで、文系と理系の初任給を変えるわけでもなく、人事上の取り扱いも同様にしてきたという実態があったように思います。そして、これは私の個人的感想ですが、その背景には「技術者はそもそも研究や実験が好きで技術者になったのであり、好きでやっているのだから時間やおカネがかかっていても気にかける必要はない」といったような心情的なものがあったのではないでしょうか。さらに個人的な推測を続ければ、労働条件などを決めるのはもっぱら「文系」の仕事であり、それだけに「理系」に対するシンパシーが希薄であったことも背景にあったのかもしれません。
 そういう意味で、やはりこれまでは理系がいささか冷遇されていたということは、多くの企業が反省しなければならないのではないでしょうか。現在ではすでに、優れた技術者に対してポストにかかわらず役員待遇、部長待遇といった高い労働条件、処遇を与えるしくみを多くの企業が導入し、実施しているのは、そうした反省のあらわれであると考えられると思われます。官僚組織の効率性はそれなりに評価できるものであり、それ以上の組織のあり方が簡単には見当たらないなかでは、当面はこうした方向で対応せざるを得ないのかもしれません。今後さらに、理系の初任給を文系より高くするとか、制度的に技術者の抜擢を増やすなどの目に見える施策を導入する企業が出てくれば、技術者の不満もいくらかは収まってくるでしょう。
 ただし、今回の日亜化学事件に関しては、発明者の貢献が50%ということは、研究者だけではなく、それこそ社長以下(まあ、取締役は除外すべきかもしれませんが、それはたいした問題ではありません)、発明者以外の全従業員、日亜化学の場合は3,000人強という従業員の貢献が、発明者ひとりの貢献より低いということになります。しかし、発明を利益にするまでの間には、現実の生産設備を導入した生産技術者、コストダウンに知恵を出した現場の作業者、売り込みに奔走した営業マンなど、多数の人の、ほとんどは目に見えない、しかし大きな努力があったはずです。また、発明が生まれるまでの間にも、それに先行する研究に従事してきた技術者たちの成果があったはずです(そもそも、発明者自身も、入社以来上司や先輩などの指導を得たからこそ、その技術力を形成できたという部分は大きいでしょう)。こうした人たちすべてのあらゆる貢献の総計が、発明者ひとりのそれを下回るという評価は、およそ常識的な感覚をかけはなれているのではないでしょうか。どんなに優れた技術でも、それ単独では人々の生活を豊かにすることはできません。利益を生むにはさらに多くの人々の努力と苦心を要するのであり、こうした人々の貢献を適切に評価しない今回の判決は、やはりわが国のめざす「科学技術創造立国」を危うくする、「亡国の判決」と呼ぶべきものでしょう。

(次回に続きます。次回は、企業における研究開発の実態をふまえ、研究者相互の配分の問題を中心に考えていきます)

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