日亜化学事件、亡国の判決から考える その3(16.2.27)
〜 リスクとリターンのルールにしたがって 〜



<その2>「今度こそ「文理格差問題」に向き合うべき」はこちらです。
<その1>「「分配」「配分」の観点から考えよう」はこちらです。

 前回からの続きです。
 前回は企業内の従業員のあいだでの配分について「文理格差問題」を中心に考えましたが、今回はさらに範囲を絞って、研究開発に従事する技術者相互の配分について考えてみたいと思います。これはいわゆる「成果主義」をめぐる問題にもなります。
 企業の技術者にもさまざまな類型がありますが、今回考えるのは、発明の対価が問題となるような新技術の開発・研究に従事する技術者であり、「研究技術者」と表現したいと思います。問題は、成功した研究技術者と成功しなかった研究技術者の間の配分ということになります。
 昨今、「成果主義」と称されて流行している考え方がありますが、その一般的な主張によれば、成功して成果をあげた人にはおおいに手厚く報い、結果として成果があがらなかった人には(あまり能力やプロセスにはかかわらず)手薄い処遇にとどめるべきであり、それによって研究技術者はよりモチベートされ、より大きな成果を期待できるということになりましょう。これは、基本的に今回の判決(利益の50%までもを成功した研究技術者に集中させる)を支持する考え方であるとみられます。もちろん、成果主義の考え方には合理的な部分も大きいわけですが、しかし行き過ぎた成果主義はかえって弊害が大きいことも、実務家であれば常識の範疇であると思います。
 日亜化学の場合、企業規模やそれに応じた研究開発の規模といった面で必ずしも以下の議論に合致するとはいえないでしょうが、とりあえず一般論としては、企業の研究開発は基本的に組織で進められていることは言うまでもありません。一つひとつのプロジェクトが組織で進められているという意味だけではなく、ある研究所、あるいは研究開発部、といった組織が、複数の研究プロジェクトを同時並行的に進めているという意味でも、研究開発は組織で進められているといえます。
 そこでは、先端分野になればなるほど、研究が成功する確率は低くなるという事実を考慮する必要があります。発明の対価が問題になるような研究であれば、10件のプロジェクトの中で1件か2件当たれば御の字だ、というのが実情でしょう。こうした分野では、事前にどの研究が当たるのかがわからない以上、多少なりとも可能性のありそうなプロジェクトをいくつか選んで取り組んで、ほとんどは失敗でもひとつの成功があればそれでよい、という取り組みを組織をあげて進めることになるでしょう。そして、成功も失敗も含めたすべてのプロジェクトの成果の合計が、組織全体としての成果として共有され、評価されることになります。
 さて、このような組織内の複数の研究プロジェクトを個別にみた場合には、それが当たるかどうかは、研究者の技術力やがんばりの違いにも当然あるでしょうが、それと同じ程度に、いわゆる「運」の要素が入り込んでくるのは避けがたいことでしょう。どれほど技術力と努力を傾けても答のない問題に答は出ません。自分の取り組んでいる問題が答がある問題なのか、あるいは答のない問題なのか、それは多分に「たまたま答のある(ない)問題だった」という「運」の部分も存在するはずです。
 このような不確実性の高い仕事では、成果配分を大きくしすぎると成り立たなくなる危険性が高いことは、ほぼ周知の事実といえます。極端な話、成功した人は昇進と多額のボーナスを手にするが、失敗した人は多額の研究開発費を費消したのだから解雇する、という制度だったらどうでしょうか。それでも優秀な研究者がこうした不確実性の高い研究に取り組もうとするでしょうか(逆にいえば、やってみる前から「この人がやればどんな先端の研究でも必ず成功する」という神様のような技術者がいれば、おそらく巨額の報酬による引き抜きが行なわれることでしょう)。
 こうした仕事については、従来から成功した人はそれなりに報酬や昇進で報われるいっぽうで、失敗した人もそれほど大きな差をつけられることはないというしくみになっているからこそ、成功の可能性の低い研究にも安心して取り組めるわけで、組織で複数の研究開発プロジェクトを同時並行的に進めるということは、リスク分散の知恵でもあり、そこではあらかじめ適度なリスクとリターンの組み合わせに設定されているわけです。どのような組み合わせを採用するかは、各企業のポリシーや、研究内容などによって異なってくるのだろうと思いますが、とはいえ、あまりにローリスク・ローリターンな年功的人事では単なる悪平等であって動機付けを損ねるでしょうし、逆にあまりにハイリスク・ハイリターンな組み合わせではだれもリスクを取れず、組織が成り立たなくなるでしょうから、各企業ともそれなりに常識的なところで設定されているものと思われます。
 ですから、それにもかかわらず結果が出てから(リスクがなくなってから)高いリターンをよこせと言い出すのは、競馬が終わってから馬券を買うようなもので、そもそも筋が通っていないのです。日亜化学事件に限らず、発明の対価を求める事件の原告の最大の問題点がここにあります。ただしこれは、本質的には原告や判決の問題ではなく、法律の問題であるようです。不思議なことに、こうした後だしジャンケン的な訴訟ができるのは特許についてだけらしでいのです。たとえば、従業員が職務で商品デザインを作成したとき、就業規則などで定めておけば、その著作権は問題なく企業に帰属することになります。ところが、特許は法律上事後的に「相当の対価」を争うことができるため、企業としてはある日突然退職した元従業員からこれを訴えられ、多額の支出を余儀なくされるという不確実性を負担しなければならなくなっています。それが数百億円との巨額になる可能性があるとなると、企業が研究開発を進める上での大きな負担となりかねません。
 逆にいえば、もし、発明に失敗したなら費消した研究開発費を自己負担する、そのかわり成功したら得られた利益の相当部分を自身が得る、というハイリスク・ハイリターンの契約にあらかじめなっていたのであれば、当然負担したリスクに応じたリターンを得るのが当然でしょうが、現実にはそうはなっていないのです。
 そう考えると、詳細な事情はわかりませんが、「成功した研究の利益の50%を発明者が独占」という今回の判断はいかにも筋違いというべきでしょう。もし、このようなハイリターンを発明者に与えるべきだということになれば、企業としては当然のことながらすべての研究技術者にそれに応じたハイリスクを負担してもらわざるを得なくなります。しかし、そんなハイリスクを負担できる研究技術者がどれほどいるでしょうか。となると、企業における研究開発自体が成り立たなくなり、「科学技術創造立国」もまた成り立たなくなるでしょう。この面からみても、今回の判決はまことに「亡国の判決」とのほか言いようがないものでしょう。

(次回に続きます。次回は、これまでの内容もふまえながら、発明への報奨をはじめ、技術者の処遇のあり方について考えていきます)

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