日亜化学事件、亡国の判決から考える その4(16.3.1)
〜 技術者の処遇の見直しが必要 〜



<その3>「リスクとリターンのルールにしたがって」はこちらです。
<その2>「今度こそ「文理格差問題」に向き合うべき」はこちらです。
<その1>「「分配」「配分」の観点から考えよう」はこちらです。

 前回からの続きです。
 これまで、発明による利益の「分配」「配分」について、3つのレベルで考え、今回の日亜化学事件の判決の問題点を述べてきました。今回は、これらもふまえて、発明への報奨や技術者の処遇について考えてみたいと思います。
 すでに多くの指摘があるとおり、判決の200億円も非常識ですが、日亜化学が世間でいわれているように問題の発明に対して昇進・昇格などで報いることもなく、本当に2万円の報奨金だけですませたのだとすれば、それも同じくらい非常識だといえましょう。今回の訴訟において日亜化学は、問題の発明に対する原告の貢献は、かかった費用を考慮するとマイナスである、というような主張をしたのだそうで、その訴訟戦術のまずさも指摘されていますが、これも「2万円」をあくまで正当化しようとするがゆえのものと思われます。こうした日亜化学の姿勢が裁判官にきわめて悪い心証を与えた結果、懲罰的な意味もこめて巨額の請求認容となった可能性も否定できないのではないでしょうか(もっとも、いかに懲罰的に会社に多額の支払を命じたところで、このシリーズの最初で述べたように、それは結局は他の従業員や社内外の関係者に転嫁されることになるのですが)。
 さて、前回まで述べてきた内容のうち、従業員と会社・株主の分配のあり方については、企業によって事情も異なるので一概にはいえませんが、このところの傾向としては日本企業は従業員への配分が手厚すぎるとして、株主に対する分配を増やすべきだとの圧力が高まっているように思います。これに対しては、働く人の代表を自任する(と思われる)労働組合がもっと発言してもいいのではないでしょうか。また、従業員の間での配分に関しては、個別の事情はいろいろだとしても、一般的にはいわゆる「文理格差問題」にきちんと取り組み、技術者の処遇の改善を進める必要性があるのではないかと考えていることは、すでに述べたとおりです。
 それでは、技術者の間での配分、成功した技術者への処遇はどのように考えられるのか、についてみていきたいと思います。
 これまで企業は、研究開発に必要な巨額の投資を負担するとともに、成功しなかったプロジェクトに従事した技術者に対しても冷遇しないことによって、技術者の負担を軽減し、安心して研究に打ち込める体制を整えてきました。同時に、成功したプロジェクトに従事した技術者に対しては、昇給や賞与などの評価を高くしたり、昇進・昇格で有利に扱うなどして報いてきたといえると思います。そうしたなかで、発明の対価をめぐる紛争は古くからありましたが、近年までそれほど多くはなかったのであり、それはすなわちこのようなやり方がそれなりにうまく機能し、発明者(やその他の関係者たち)の納得を得られてきたということでしょう。ところが、このところこうした紛争が急増しているのは、こうした報い方がうまく機能しなくなっているということを示しているように思われます(もっとも、味の素事件のように、人事管理の常識からみて十分に昇進・昇格などで報われていると考えられるようなケースでも訴訟が起きており、評価に納得を得ることの難しさを感じさせられます。ちなみに、この事件の判決は、発明の対価としての昇進・昇格をまともに取り上げておらず、その点では日亜化学事件以上の亡国ぶりかもしれません)。
 これは私の推測ですが、その背景には、近年多くの企業で組織の拡大が停滞するようになり、研究開発組織も同様に拡大しなくなったことで、成功した研究者に対して昇進・昇格という形で報いることが難しくなってきたことが原因として存在するのではないかと思います。研究者(に限りませんが)にとって、昇進・昇格は単なる収入増を意味するだけではありません。それに加えて、その高い技術力に対する尊敬の念を表すものでもあります。そして、なによりこれからの研究テーマの選定や研究予算の使用などに関して、その自由度や裁量が拡大することを意味します。すなわち、「魅力ある仕事」という形で報いているわけです。これは研究開発に従事する技術者(だけではないでしょうが)にとってはとくに、おカネよりも名誉よりもはるかに大きな魅力があるのではないでしょうか(研究者によっては、管理職になって管理業務が増えることを好まない人もいることにも注意が必要でしょう)。
 そう考えると、昨今のいわゆる「ポスト詰まり・仕事詰まり」や、長引く経済低迷のなかでの研究開発予算の効率化などのために、このような魅力ある処遇を企業が提供できなくなっているところにかなり根本的な問題があるのではないでしょうか。となると、それに代わる手立てを考える必要が当然出てくるわけであり、このところ各企業が発明に対する報奨金を大幅に増額したり、上限を青天井(やそれに近い高額)に引き上げたりしている動きが目立つのも、そうした文脈のなかでとらえることができると思います。従来は昇進・昇格などに較べて従属的な位置づけだった報奨金が、より大きな役割を果たさなければならなくなっているということではないでしょうか。そして、これまでの主役だった「魅力ある仕事」の魅力が大きなものであればあるほど、報奨金の額も大きくならざるを得ないわけです。昇進・昇格で報いる余地が少なくなるほど、おカネでの処遇は刺激的なものになっていくのでしょう。
 結局のところ、いたって当然の話ですが、どのような成果に対してどのように評価し、どのように報いるかということを事前にできるだけ合理的に決めておき、合意を得ておいて、それにしたがってきちんと評価と報奨を行なうことが重要だ、ということになると思います(そのためには、現在の特許法の不備を見直す必要があるという議論があることは周知のとおりです)。そして、それにあたっては、いかに合理的な制度を作るかということもたしかに重要ですが、それ以上に大事なのは、過去の評価にとらわれることなく、実現した成果に対してできるだけ冷静かつ公平な評価を行なわなければならない、ということではないかと思います。
 今回の日亜化学事件をみても、問題の発明が成功した時点ですぐに原告に対して「君が正しかった。研究を中止せよなどと言って申し訳なかった」と率直に認め、例えば「取締役研究部長に昇進」(なりなんなりの、それなりに魅力的な仕事と労働条件をともなう処遇)といった処遇をしておけば、報奨金は2万円でも、このような事態にはおそらく立ち至らなかったでしょう。当時の日亜化学の規模ではそうした処遇は難しかったかもしれませんが、その場合にもたとえば原告が退職して渡米するというのであれば、それにあたって退職金に大幅な慰労金を加算し、さらに相応の対価をともなう機密保持特約を締結するとともに、退職後も引き続き技術顧問契約を結ぶ、といったことも考えられたと思います。これに必要な金額も、まず1億円とまではいかなかったでしょう。もちろん、従来の評価を大きく修正すること大きな抵抗感があることは容易に想像できるわけですが、しかしこうしたケースで感情的理由で評価が訂正されず、不当な評価のまま据え置かれるというのでは、評価制度、ひいては人事制度全体が無意味になるといっても大げさではないのではないでしょうか。
 いっぽうで、田中耕一氏のノーベル賞受賞(かなり例外的な事例ですが)に対する島津製作所の対応はなかなか洗練されたものであり、参考になるものであると思います。具体的には、報奨金は1,000万円ですが、それまで「主任」であった田中氏を役員待遇に昇格させ、「田中耕一記念」との名を冠した研究所を新設して功績を顕彰するとともに、その研究内容などについて田中氏に大きな権限を付与しました。ノーベル賞相場なのでかなりの大盤振る舞いですが、キャッシュで数百億円支払うというのに較べれば会社の負担はかなり軽かったはずです。それでも、田中氏の言動からみるかぎり満足度は高かったように思われます(当時の同僚の貢献を意識的に強調するなど、感謝の念が感じられるくらいです)。管理職レベルですらない一介の主任から役員待遇へと大幅な評価の訂正を行なったことが好結果をもたらしたといえましょう。これと比較すると、日亜化学の対応はやはり拙劣だったといわざるを得ないと思います。
 さて、今回の判決に対するマスコミや世論の反応は、当初懸念したほどには大きな騒ぎにはならなかったようです。むしろ、経済や技術開発の現場に近い記者や論者の論調は、特許法改正の必要性を訴えるなど、企業の研究開発への影響を心配する冷静なものになっているようです。そもそも特殊性の高い事例であるのに加えて、やはり常軌を逸した判決だというのが共通の理解になっているとみてよいのではないでしょうか。おそらくは、上級審において適切な修正がはかられるものと思います(日亜化学にも冷静で合理的な対応が求められると思うのですが、どうでしょうか)。
 とはいえ、今回の判決はその衝撃度は特大であり、企業の人事管理という側面に対しても、大きな問題提起となったことも間違いないものと思います。亡国判決を出させてしまったのは、ひとり日亜化学だけではなく、産業界全体にもその責任の一部があると考えることもできるでしょう。特許法の不備を改める必要があることはもちろんですが、企業としても、研究者、技術者の処遇についてその内包する問題点にしっかり向き合って考え直すとともに、人事制度やその運用の一般的な原則、留意点についても、あらためて問い直す契機としたいものです。

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